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再び飢饉は来るか?

荻窪に中堂寺という古刹がある。

そこの鐘楼門が珍しい建築様式だということで区の重要文化財に指定されている。

建築の話はさておき、その説明柱に建築は天命元年(1781)と記してある。

 

 天命と言えば「天命の大飢饉」が思い浮かぶ。そこで飢饉について考えてみた。

天命2年から6年間と言う長期にわたり東北、北関東で異常気象による米の不作が続いた。この為、仙台藩で30万人、佐竹藩で15万人、など正確な数字は分からないが(失政改易を恐れて幕府に少なく報告)、研究者によれば全国で100万人近くの餓死者だろうと推計されている。

当時の日本の人口が3千万人だからその規模が尋常ではない事が分かる。

近世最大の飢饉と呼ばれている。

 

この惨状は文章や絵画に残されているのでそれを参照願いたいが、今も東北地方に残る

「人塚」を見て飢餓の恐ろしさを顧み、先祖を忍ぶのも飽食の時代に必要だと思う。

 

飢饉は「天命の大飢饉」だけでない、「封建時代の百姓一揆年表」というのが発表されているが、一揆が無い年が珍しいほど頻繁に起きている。命をかけた抗議の裏には飢餓があり、飢餓の裏には不作がある。勿論飢餓は失政も加担しているが米の不作がそれほど多かった査証であろう。

 

この慢性的な食糧不足は明治になっても続いていたので、明治政府は各帝大に農学部を最初に作り、各地に高等農林を作り、食糧増産の研究をさせた。要するに長年、食糧不足に悩まされていたので、食糧の確保が国の最大の目標だった。

 

食糧不足はこれは何も日本だけで無く世界中が悩んでいた。1840年代のアイルランド/ジャガイモ飢饉、1920年代のロシアの飢饉などはるかに凄まじい。この常時飢餓状態から人類が大きく脱し得たのは1940年から始まった「緑の革命」である。

 

これは冷害や乾燥や害虫などに耐性のある品種への種の改良、化学肥料や農薬の大量使用、機械化農業による大量生産を意味する。これにより大幅な食料増産が可能となり、世界人口も100年間で4~5倍に膨れ上がった。これにより、我が国も食料に心配が無くなったのはたった昭和30年前後頃、今からたった60年ほど前である。

 

 飽食の時代でエネルギーの4割が廃棄されTVでグルメ番組が席巻しているのは、穀物の歴史からすれば、前代未聞の出来事なのだ。だがこの状態が何時まで続くかは不明である。

 

その理由の一つに最近見られる世界的な異常気象である。

中堂寺の鐘楼は天命元年の建立で、飢饉は翌年からだが既にこの年から不作が始まっており米価が急騰している。又終了したと思われる天命8年の翌年も四国では一揆があり、要するに前後含めたかなり長い異常気象で、その核を成したのが天命3年の浅間山の火山爆発、アイスランドの火山大爆発など各地での噴火で、火山灰が世界を覆い日照不足となったと指摘されている。

 

日照不足と長雨、長雨はダム整備により今日ある程度押さえられるとしても、火山爆発による日照不足は石油の力や品種改良でも、今日なお解決出来ないのではないか。又今、心配されているのは地球温暖化による異常気象で炭酸ガス効果による豪雨と乾燥による減収である。皮肉にも緑の革命が化石燃料の消費を促進し、又減収に至るというブーメラン現象が起こりつつある。

 

火山爆発は地震と同じで抗しがたく何時起きるかも知れない。温暖化は人為的に阻止に出来るかも知れないが、化石燃料の使用を抑える事は、飢饉の時代ヘの若干の後戻りを余儀なくされるだろう。かなり難しい。何れにせよ食糧増産は黄信号がついている。

 

この鐘楼が完成した頃には、棄村して食を求め流浪する民が門前で炊き出しの列をなし、行き倒れの遺骸が数多く運び込まれていたことだろう。中には欠損した遺骸もあっただろうし、この建物はそんな地獄を見てきたのだとおもうと感慨もひとしおである。 

たった240年前の史実である、物語では無い。