荻外荘は現在区の公園として整備中であるが、創建時と現在とはその規模が大きく異なっていて、その変化を辿る事は荻窪の開発の歴史探索そのものであるので、少し調べてみた。
ここは昭和2年に東大医学部教授、宮内省侍医頭を歴任した入澤達吉の邸宅として建てられ「楓荻凹処」と名付けられた。邸宅のあるところはかなり高くなっているが、すぐ下には善福寺川が流れておりその下流域は水田地帯であった。今でも西田、東田と言う地名が残っているが低湿地で現在も豪雨被害がある。昭和2年頃はちょっとした雨で溢れていたので流域は人は住んでいなかったので土地の入手は簡単だったのではないか。
昭和12年近衛文麿がこの地を気に入り譲り受けて、西園寺公望によって「荻外荘」と名付けられた。敷地が荻窪と西田に半半に跨っていたから命名されたとの事だ。
上記創建時の地図を見ると庭は善福寺川を挟んで向こう岸「松渓中学」まで達している広大なもので驚かされる。最近つくられた芝生の荻外荘公園(前は駐車場、更にその前は芝生庭園)と川との間が池になっっており、川から水を入れたとなっているから、段差がありさらに川の水位も高かったことがうかがえる。
上記写真で芝生の上に和服姿がみえるが、その先が池でその先が両岸木が茂っているのが川で、又その先がまた芝生になっている。川を渡るには松渓橋を使ったのだろう。
総面積的には現在の敷地の5倍はあった勘定になる。
池は昭和37年地下鉄丸の内線工事に出た土砂で埋められ、河川改修工事と同時にこの辺りが住宅地に変貌した。当時は住宅不足で公共住宅が各地に作られたが、この地は都が買い取り都営団地とし、向こう岸も電発社宅等公的使用とした。尚少し下流の水田地帯は荻窪団地となり更に下流の水田は阿佐ヶ谷団地として生まれ変わっている。要するに深刻な住宅難解消の為土地買収が容易な水田を買い上げ埋め立て公共施設を作った。今でもこの地は建て替えを待っている古い公的なコンクリート建築物が点在している。
丘の上の敷地も近衛家は切り売りで敷地がだんだん狭くなり、パシフィック・パレスに続きライオンズ・マンションなどが建ち、荻外荘通りを挟んだ三角地帯なども敷地続きと思えない位一体感の無い佇まいになってしまった。
だが、さすが荻外荘であるこの一帯は高い松林がずらっと残っており(橋の名前も松見橋とある)、高台の一等地として、多分杉並区としてNo.1ではないかと思われる風致地区の風情を残している。これ以上細分化されないよう区が乗りだした判断は区民としてあり難い。
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加藤 定宏 (月曜日, 01 2月 2021 10:11)
先日、いただいた返信メールで、Yahooアドレスへとありました。
1月24日に、次のアドレスへメールを送りましたが、届きましたか?
(sympho2_ino3@yahoo.co.jp)