一葉はこの露地で18~21歳を過ごした。明治23年から26年、東京がまだ文明開化の恩恵を一般家庭まで及ぼしておらず、家庭には電灯も水道もガスも引かれていない時代である。
現在この井戸はポンプ式になっているが、当時は車井戸であった。
一葉は針仕事をしながら一家を支え、この井戸で洗濯をし、ふろ水もバケツで13杯運んだ。
母と妹の女3人貧乏長屋暮らしである。
この露地は春日通り方面の高台、菊坂、鎧坂という3方を坂や崖に囲まれた谷間にあり、本郷台地の高いところは西片とか真砂とか高級住宅地であるが、深く抉られた当地は貧しい庶民が肩を寄せ合って生きている今尚独特な雰囲気を持った場所である。地方選挙後ということだが共産党のポスターがあちこちに目立ってもいた。
「嘉永、慶応江戸切り絵」をみるとこの場所は山林土手馬場植溜等となっているから人の住む所ではなかったと思われるが、人口増で何時の間にか人が侵入した場所と推察される。
細い道が迷路になっており、地元民以外は道に迷う。
「大つごもり」では冬は北風の隙間風で寒い事が書かれている。しかし現在はびっしりと軒が重なるように密集しているので風も入らないのではなかろうかと思われるので、当時家は今よりまばらだったかもしれないが、雰囲気は十分である。
ガイドブックにはこんな露地がまだ東京に残っているいる事に誰しも驚かされると書いてあるが、私もびっくりした。何しろ露地の入口幅は1mぐらいしかない、少し入った所にある井戸は共同作業場だからやや広くなっているが、4面びっしり建物でその間の隙間がない。個別の建物だが長屋風の2階建が屏風のようにつながり、壺の中に入った場所である。
建築基準に合致しないから建て替え不能につき、修理の連続で残っている貴重な遺構である。
実は私はここを訪れたのは2回目である。以前は文京区の案内板があったが令和の今は撤去されている。私の様な一葉フアンが狭い露地に多く訪れるので迷惑な住民が反対したのだろう。
今回の新発見は井戸の奥にある急な階段である。左手には木造3階建て(写真上/2枚目)の古いがちゃんとした建物があるが、軒下の暗い階段を上ると鎧坂(写真上段右)の途中に出る。ここは相当な崖下なのが良く分かる。人ひとりが通れる迷路、昼なお暗し、夜は住民以外は怖くて入れないだろう。
鎧坂(写真上段右)の中腹に金田一京介、春彦親子が住んでいた(写真中断左)。
多分啄木も訪れたに違いない。
又この坂を上ると水道橋方面に出られるから、一葉は好きだった桃水の下へ小説の勉強に通った。この坂の西側は高台なので続々とビル化されていて、明治の匂いは消えつつある。坂下の大きな屋敷も前はあったが今はマンションに変わってしまった。写真下段中は鎧坂を坂上から見たところ。
最後の写真3枚は一葉が通った伊勢屋という質屋である。菊坂下にあり廃業しているが、保存されて見学も出来る。貴重な明治の建物である。
東京広しと言えども、一葉の生きた明治という時代の面影 を最も強く残している、異次元の空間であろうか。
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