樋口一葉は明治26.7菊坂から下谷竜泉寺町に引っ越して商売を始めたが失敗して、
翌27.5に本郷丸山町の鰻や「守喜」の離れに移転した。小さな池もあり家賃3円と安くは無かったが、ここが気に入り後に奇跡の14カ月と呼ばれる名作を続々と書きあげた。
そしてそれが世間に認められ、それまでの苦労がやっと報われるかに見えた頃、皮肉にも病状が悪化し29.11.23、息絶えた。享年24歳、結核であった。
写真上段左は現在白山通り「コナカ」の入口右の「終焉の地記念碑」。
日本文学史上24歳で夭逝し、今日尚広く読み継がれ、5千円札の肖像画にもなった著名人は居ない。畢生の天才である事に異論はなかろう。
一葉は14歳の時、中島歌子の「萩の舎」という和歌の塾に入門、その後住所を転々としても、桃水との仲が噂にのぼり中断した時期を除きそこに通い続けた。内弟子となり住み込みの時期もあり、1000人と呼ばれる生徒の中で際立った存在だった。死の直前まで通い続けたから、一葉の人生にとって極めて大きな存在であったはずだ。
彼女が通った萩の舎への道を辿ってみた。
終焉の地(写真上段左)から白山通りを渡って伝通院に行く道、善行寺坂を上る(写真上段右)。坂の真ん中にムクノキの大木があり(写真下段左)、幸田露伴邸を過ぎると、伝通院である(写真下段中)。伝通院正門の門前通りを進んで春日通を越えて安藤坂を下る。
可成りの坂だがこれでも都電を通すために傾斜を緩めてあるらしい。
余談だが、この辺りに永井荷風は育った。その後彼は海外を含め各地に住んだが、小石川が彼の心の故郷だったかもしれない。
この安藤坂の中腹に「萩の舎」はあった(写真下段右)。裏の北野神社に中島歌子の歌碑がある。
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一葉は生活こそ苦しかったが、それに耐えるだけの文学による自己実現意欲が人並外れて強かった人ではなかったかと思う。武士は食わねど高楊枝というけど、精神的気位は強くそれが支えていたのではないか。気位の一つに文学的素養や頭が良かった事の他にも、士族という出生の自負もあったと思われる。私の父は明治30年生まれだったが、死ぬまでその事に可笑しいほど拘っていた。一葉は明治5年生まれだから、その時代は今想像できない位世間は拘っていただろうと思われる。明治は家制度がまだ強固で士族と平民の差別は大きかった。
貧困と不幸は必ずしも一致しない。彼女の貧困は文学の肥やしになってこそすれ、精神を蝕むものではなかったのではないか。
そして最後は今式部とまで評価され、社会から受け入れられたのだから、幸せな人生と言えば言えるのかもしれない。この点に関しては寂聴さんの意見に賛同する。
明治は遠くなりにけり、彼女の生きた百数十年前の社会を今想像してみても、かなり実像とは異なるのだろう。海外文学移入による革新の流れ、いや日本全体を覆った欧風改革の激流の中に生きた、古い価値観を持った日本人の戸惑いと反発、庶民の生活水準の低さと高級官僚の贅沢などなど、ややオーバーに語られたり、不足があったり、明治は既にぼんやりして来た。
焼け残った本郷菊坂辺りや森川町の狭い露地や狭隘な敷地をみると明治の匂いが残っている気がするが、それは一言で言えば貧しかった時代のような気が私にはしてならなかった。
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