啄木は17,19歳の時上京しているが、それは滞在であって居を構えた訳ではない。
本格的に東京での単身作家活動を始めたのは明治41年23歳の時である。それは金田一京介の斡旋で本郷の「赤心館」に身を寄せたことより始まる。
赤心館は本郷菊坂台上の長泉寺の東にあった下宿で、現在はオルガノの会社敷地内と言う事なのだが、2023.5現在大規模マンション建築中で位置が定かでは無くなっている為、文京区では敷地境界道路脇に説明版を設けて顕彰している。<写真上段2枚 M41.5~8在住>
すぐ側には嘗て文人御用達の菊富士ホテルがあったらしく其処にも石碑と案内板がある。
(写真2段目右参照)
この辺りは菊坂と言っても高台の方で極めて眺めの良い風の吹き抜ける良い場所である。
赤心館に落ち着いたものの作品の売り込みに失敗し忽ち窮困、5カ月足らずでここを立ち退き、又金田一の紹介で本郷森川町の蓋平館別荘に転居した。ここは菊坂下から東大正門前まで勾配の急な新坂という通りに面している。その後太平館と名称を変え最近まで存在した建物だったらしいが2023.5現在やや高級なマンションに建て替えられており入口に石碑と説明版が設けられているばかりであった。<写真2段目右、3段目右新坂風景 M41.9~42.6在住>
蓋閉館時代東京朝日新聞社の校正係の定職に就けたので、翌年には田舎の母、妻、娘を呼び寄せ本郷3丁目交差点近く春日通に面した床屋の2階に移転した。この床屋は「あらい喜之床」といい現在は建物が明治村に移設され現存。尚驚いたことにこの床屋は現在も新井理髪店として営業している、100年以上の老舗立派である。<写真中段 M42.6~44.7在住>
喜之床では「一握の砂」が刊行され一級の歌人としての地位が確立した充実の時期だったが病が愈々悪化し立ち退きを迫られ、小石川5丁目の借家に引っ越した。ここが啄木の終焉の地となった。27歳の短い命だった。<写真最下段右2枚 M44.8~45.4在住>
少し前は大きな石碑があった写真があるが、現在は当地にはビルが建てられその1階に2坪ぐらいの顕彰室が設けられ無料で閲覧できる。当時はかなり寂しいところだったと思われるが現在は播磨坂通りも桜並木で整備され、閑静な住宅地というところになっている。
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啄木は若いころから結核で、毎日が死を前提とし,又はその恐怖から逃れる日々だったのではないか。啄木が無くなる1か月前には母が死に、翌年には妻も死んでいる。家族感染である。
二人の娘も親の年齢さえ超えられなかった。詩人は食べてはいけないのは今も変わらないが、明治の時代の赤貧洗うがごとしは現代と比べられないだろう。皮肉にも病と貧困これが啄木の詩の源泉になった。
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詩歌は花鳥風月、恋、無常と言ったテーマを言葉の魔法で謳いあげ、中世に和歌として完成の域に達したので、それが正当な歌の基本になった。その新たな展開は芭蕉の俳句によってなされ、又子規によってさらに変化していったが、短歌においてはその出来上がった典型を崩すのは邪道と言われ続けた。啄木も当時新派と言われ軽視され、今でも何かと批判が無くもない。
啄木の詩は生活の苦しさを謳ったという意味では自然主義だが、正直な心の吐露と言う意味では私小説的でもあろう。抒情的な泣き虫坊やかと思えば、社会主義や反国家権力という強面の側面も持ち、家庭制度に疑問を持つなど先進的な思想も持ち、一括りで計れない人物であり、金銭的にもモーツアルトに似て音痴で、恋多く、そんな旦那を持った節夫人の苦労は只ならぬ事であったであろう。
歌謡で言えば演歌で、クラシックで無い。でも演歌は時代と共に消えていくが、啄木の歌は100年を過ぎた今も国民の多くが一つか二つは口ずさめる程長生きだ。単なる演歌ではないのだろう。伝統的な詩は餡を餅で包んだように間接的、象徴的表現を良しとしたが、啄木は直接餡が表に出ている。そんな感じが詩に逆に強さを与えていると言う事なのだろう。
最も国民に沁み込んだ歌人と言うことから稀有の天才人と言えよう。
その理由を考えてみたい。
①地方から都会に出て来た人が多く、望郷の念に共感する。
②貧しい人、病気がちな人にとって、自分だけではない啄木もという共感性を覚える。
裕福な人は余り感動しないかも知れないが。
③口に出しても覚えやすく、分かりやすい
④演歌の作詞家はあくまでも作為だが、啄木の一生をぼんやりでも知っていれば、歌の内容は啄木そのもので、人格が一致している。作り物で無いという緊迫感がある。
⑤何といってもやはり啄木の詩はいい。
「やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごくに」
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