本郷は戦災を免れた

東大正門の対岸は旧森川町と言い、かつて文人や学者が多く住み、また下宿も多かった。

この辺りは東大があるので米軍は爆弾を落とさなかったと言われており、その為戦前の建物が所々残っている(写真中段2枚)。

戦災を免れたという事は区画整理も出来なかったと言う事であり、今日尚、道幅も狭く曲がりくねった道が多く異空間になってゐる。

 

戦後は下宿の多くが和風旅館に変わり、修学旅行のメッカになった時期もあったが、現在はそれも廃業して2~3か所建物だけが残っているだけ。

明治から多分変わっていない住宅敷地には極端に小さなものも散見され(写真下段左)、意外に庶民臭い匂いがする街でもある。

 

写真上段左は本妙寺坂で中程が菊坂である。本妙寺は世界3大大火と言われ江戸城天守閣まで焼き尽くした明暦の大火(1657年)の火元の一つである。この大火の後、各地に火避け地を設けたり、防火体制の人的整備をしたりして江戸は大きく変わった。

菊坂をクロスして上り返した辺りに案内板がある(写真上段右)。

現在は巣鴨染井霊園の隣に引っ越してそこに慰霊碑などがある。

 

この道を真っすぐ北上すると先述の森川町になるが、その中心的な場所に徳田秋声の居宅が保存されている。明治の建物で門構えもそれなりである。秋声は藤村や花袋や白鳥と共に自然主義文学の大家で売れっ子作家であった。彼らはモーパッサンやゾラなどに倣い人生や生活の暗い面を感情を交えず冷静に描いた。私は花袋など好きだがその後、夢も希望もないとか哲学が無い(漱石)とか倫理も理想もないとかさんざん批判され、廃って行った。

 

それでも自然主義は現在も影響を与えていると思うし、どの道完成形はないのだから善悪の判断は出来ない。読者がその時々求めるものの一つとしてその価値は未だに高いとおもう。