江戸時代「本郷もかねやすまでは江戸の内」と言って3丁目交差点角に現在もある「かねやす」という建物までは瓦葺、漆喰作りが原則でそれから先は藁ぶき可だったので、江戸市中の境目に位置する落ち着いた街だったと思われる。それが明治に入り急に注目を集め発展したのは、明治10年に加賀前田藩邸に東大が設立された時からである。
本郷3丁目交差点から春日通りを西へ3番目の信号に真砂坂上と書いてある。
今の町名ではないが昔はこの辺りを真砂町と言った。高台なので当時人気で豪邸が建ち並んでいたとの事だ。現在はそれらしきものは残っていないが、真砂坂上の交差点を北に進んだ左側に1軒だけ残っている(写真上段2枚目)。ここも半分はツタに覆われているから存続がかなり危ぶまれる。もしかしたらこの写真が貴重な記録となるかも知れない。
この道をさらに進むと左側に「坪内逍遥旧居・常磐会跡」の説明版がある。
逍遥は明治17年から20年までここに暮らし小説神髄を表し、新しい近代文学を開闢させた。
その後この場所は旧松山藩主久松家が買い取り愛媛県出身者の為の寄宿舎(常盤会)になり、子規も明治20年から4年間住んだ。
この場所から炭団坂は始まる、本郷は台地だから坂だらけなのだが、中でもこの坂が最も急で長い。勾配が急なので車道にならず階段のみ、老人は上がるのに一苦労なので途中に休むべく一休み場所まである。尚、この坂から下は庶民の街で、高台の好立地と対極をなしている。
ここを下りきると菊坂に出るが、ここに賢治の住居跡の案内板があった。
その昔本郷に住んだ3人の天才 一葉、啄木、賢治は共に結核で若死だった。
各人の実人生はそれだけでドラマになれるほど苦難に満ちていたが、今残された作品を通してそれぞれ熱烈な信者ともいえるフアンを持ち続けている。
その中で生前に評価されなかったのは賢治だけである。賢治は一葉が無くなった明治29年に生まれているから同世代ではなく、啄木より10年後に盛岡中学に入学しているから、接点は無い。彼は大正10年25歳の時上京し、ここに住んだ。今でも谷間で道が狭くごちゃごちゃしているが、東大前の謄写版会社に勤め、この菊坂を上り下りした。ジャガイモと油揚げと豆腐しか食べず(採食主義)、夜は法華経の街頭布教を行った。
「あめゆじゆとてちけんじゃ」のリフレインが聞こえそうな路地裏であった。
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