志賀直哉の一生は波乱に満ちていた。実母が居るのに祖母に育てられ、その実母の早逝後、2度目の母を迎えたがやはり祖母の庇護下にあった。また父は家父長制の絶対権力者で、そのせいか彼は学習院中学では親の意向を無視するがごとく、スポーツや芝居などに熱中し、2度も落第した。高校に進むと文学に目覚め、このことも父との関係をこじらせたが、19歳の時足尾銅山の副社長だった父と鉱毒事件で意見が合わず溝がさらに深まった。その後も2度も結婚に反対されるなど、父との関係は徹底的に悪化、29歳の時自ら離籍した。
この父との確執が「大津順吉」「暗夜行路」はじめ彼の作品の主テーマとなっている。
六本木交差点から六本木通りを溜池方面に進み1番目の信号を左折し、又次の信号を右折した左側に彼が29歳まで過ごした実家があった。今は高台のとても閑静な高級住宅地だが、千6百坪余りの広大な屋敷は現在はビル化されて説明版が立っているだけである(写真上段左)。
父が居ない留守にこっそり祖母を訪ねたりした場所でもあるが、彼が「和解」で書いたように父との関係が解消された時、この場所から山王台のレストランに家族そろって出かける場面がある。六本木から赤坂まで彼らは歩いて行ったので、歩いて行ける距離なのか実際に歩いてみたがとても近く、途中に赤坂氷川神社や南部坂などあり良い散歩となった。
赤坂氷川神社は広大なアメリカ大使館職員宿舎の裏側にある。こことの境目の道は静かな良い道だが(写真上段右)、氷川神社はもっと静かなこれが都心かと思わせる緑深い処であった(2段目左正門、3段目左裏門)。
前日の大雨が上がり快晴の青空から木漏れ日が漏れる中に雅楽奏者に迎えられ神殿に進むカップルに遭遇した。突然だったので黒沢映画の「夢」のなかの狐の嫁入りを思い出し、思わず目を疑った(写真2段目右)。
氷川神社を過ぎるとすぐ南部坂である。仇討ち成功後内蔵助に命ぜられて寺坂吉右衛門は遥泉院に報告に向かったが、類が及ぶことを恐れ門は開かれなかった。雪の南部坂を泣きながら下った名場面の舞台である。そう遙泉院の屋敷は神社近くにあったらしい。行方不明扱いだった吉右衛門はただ一人切腹を免れ陰で浪士の遺族の面倒をみたと言う事になっている。
南部坂を右に見て直進し左折すると旧氷川小学校に出るが(千代田線赤坂駅近く)ここに勝海舟の記念碑が立っている(写真3段目右、4段目2枚)。
海舟は本所生まれだが人生の殆どを赤坂に過ごし、この地で亡くなった。
当時は2,500坪の大きな敷地だったそうだがそれが小学校などに転用されたのだろう。
西郷隆盛との会談を記した「氷川清話」もここで書かれた。
六本木から赤坂は現在は繁華街でビルだらけだが、明治大正はまだ寂しげな処であったようで、未だに所々におやっと思う静かな空間が残っていて、何かほっとする散歩でもあった。
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