渋谷川とは: 山手線の内側を流れる川と言えばまず「神田川」だが、「渋谷川」も繁華街を流れる数少ない水系で、都心の治水安全上重要な役割を果たしている。国土交通省河川局指定の2級河川である。...
ここの黒松も見事! 杉並区には2本の黒松が天然記念物として存在する。 1本は尾崎神社境内のものと此所である。 尾崎神社の方が樹齢といい風格といい上と思うが、神社としてはこちらの方が立派である。 井の頭通りが神田川を渡る所にある。 双方とも河岸段丘にあり川と縁が深い。尾崎神社は善福寺川である。...
これはまだ現役の表札である、でも実際には役立たない。 何故なら、この中で現在も使えるのは杉並区と言う表示だけで、あとは全て変わっている。 だから誰もこの写真からこのお屋敷にはたどり着けない。 世の中の激しい動きに合わせて行政が名称変更を繰り返し今日に至る、反対にこのお屋敷は昔から変わらず此処にある、そのことが面白い。...
天祖神社脇の路上に地図表示板が設置されている。 そこにグリーンで塗りつぶされた区民農園が表示されているが、そこには農園は無く低層豪華マンションが建っている。...
荻外荘は現在区の公園として整備中であるが、創建時と現在とはその規模が大きく異なっていて、その変化を辿る事は荻窪の開発の歴史探索そのものであるので、少し調べてみた。...
環状八号線を南下してJR中央線のガードを潜ると善福寺川を渡るが、その角にピカピカの小学校がある。最近耐震の為もありそっくり建て替えられたのだ。付帯工事として外構歩道も整備され、学校の象徴である「白旗桜」も植樹されたグリーンベルトが見事で、付近の景観を一新した。その正門に写真の校歌の石碑が立っている。仮名の崩しが読めないかも知れないので、 下記URLでご確認頂きたい。 http://www.suginami-school.ed.jp/momo2shou/gaiyou/kouka/kouka.htm 与謝野晶子は環八を挟んで反対側に震災後大正14年から住んで昭和17年この地で亡くなった。 (現在は与謝野公園となっている 南荻窪4-3-22) ご近所さんだったので作詞に応じたのだろうが、開校が昭和3年で校歌が出来たのが昭和11年だから少し遅れている。直筆の歌詞と手紙が区の有形文化財に指定され、今も保管されている。 作曲は山本直忠で直純の父、何故山本氏に依頼したのか不明、ご存じの方はご一報頂きたい。 歌詞には自然豊かなさまが謳われてるが、いまや周りには武蔵野の風情は無い、ただ善福寺川は水量は減ったとは言え今もまずきれいな水が維持されている。 桃井第二だから第一は何処かというと、青梅街道の北、プリンス自動車工場跡の原っぱ広場のそばにある。そもそも桃井という名前は何処から来ているかというと、桃園川を発端としているらしい。 桃園川は千川上水を関町辺りで分流し、青梅街道を沿いに東に引き込み、荻窪駅のやや西で北に進路を変え、天沼八幡神社の弁天池の湧き水を合わせ東進し河北総合病院の裏を通り、中央線のガードを潜り、高円寺というお寺の南側を通り東進し、あとはほぼ大久保通り沿いに進み、東中野神田川末広橋あたりで合流する。 今は全て暗渠になっているが所々緑道として整備されており、されてない所も含め今もほぼトレース出来る。桃園川の語源は上記高円寺という寺の辺りは昔桃の産地であったので、そこを通る川を桃園川と呼ぶようになったらしい。 この川は中野宝仙寺のそばを通っているが、その境内に昔寺小屋があり明治になってそこが小学校に昇格した時、その名を桃園小学校としたとのことである。 さらに杉並も人口が増えたので、現在の第一の場所に桃園小学校遅野井分校を設置し、さらに昇格時のネーミングを桃と井を取り桃井小学校とした。即ちあの辺りは遅野井と呼ばれていて 、現在の桃井という地名は小学校の名前を拝借して戦後つけられたものだ。 桃井第二小学校の校歌は昭和11年に作られている。2.26事件の年で世情不安であった。 余談だが、ここよりほど近く古刹光明院の裏に当時の陸軍教育総監 渡邊錠太郎が住んでおり早朝幼い娘の前で斬殺された。娘の名は和子といい、のちにノートルダム清心女子学園の理事長を務めマザー・テレサの案内役を務めた程の人格者になった。 尚、桃井小学校は今も1から5迄あるが、創始の中野の桃園小学校は統合で姿を消し既に無い。
<古今伝授とは何だ?>先月郡上八幡を訪れた時、大和町に「古今伝授の里」というフィールド・ミュージアムを見つけた。山の斜面を紅葉公園にしたような広大な敷地に設計をこらした建物が点在していて、一見テーマパークの趣である。古今集は10c初頭紀貫之等によって編纂された最初の勅撰和歌集だが、時が経つと編纂者も読み人も居なくなり、歌の背景とか真の意味が一般の人には分かりずらくなって曖昧なまま年が過ぎたらしい。この間定家など専門家は勿論理解していたが、武士の時代になって例えば大名等に古今集を理解させるには家庭教師が必要と言うことでその専門職を古今伝授という との事だ。この祖と言われる人が大和町出身の東常縁(とうのつねより1405年生まれ)で同家に伝わる古文書等を展示し、広く日本文化の粋と言われる和歌の復興に寄与すべく建設された施設である。写真にある立派な施設は研修にも使われる篠脇山荘であるが目を奪われる素晴らしい建物である。
荻窪に中堂寺という古刹がある。 そこの鐘楼門が珍しい建築様式だということで区の重要文化財に指定されている。 建築の話はさておき、その説明柱に建築は天命元年(1781)と記してある。 天命と言えば「天命の大飢饉」が思い浮かぶ。そこで飢饉について考えてみた。...
椋鳥が好きなムクノキ。何となくケヤキに似ている。葉は確かにザラついていた。 名札はニレ科となっているが、榎などと一緒のアサ科の分類もある。 山には無く都市に普通にあるらしく、憶えておく価値あり。 。