目次

㉓ 人は信じて生きる

㉒ 自我

㉑ N君のこと

⑳ 疫病と宗教そして国家

⑲ ニューヨーク炭鉱の悲劇

⑱ 大木の運命は先住民と重なる

⑰ カナメモチ

⑯ サラ川 アンソロジー

⑮ 与謝野公園の歌碑

⑭ 神通橋の丘の上

⑬ 尾崎熊野神社のクロマツ

⑫ 阿佐ヶ谷会の会場/青柳邸

⑪ 大ケヤキ/高円寺から五日市街道

⑩ 大クス/荻外荘

⑨ 大ケヤキ/南荻窪

⑧ 大ケヤキなど/荻窪八幡神社 アンソロジー

⑦ 大ケヤキ/上井草2丁目

⑥ 大ケヤキ/高井戸東3丁目

⑤ 聖書の言葉

④ 阿佐ヶ谷会・天沼在住作家旧宅を訪ねて

③ 坂の上のケヤキ公園

② 消えた町名「馬橋」(馬橋稲荷神社を訪ねて)

① 井伏と太宰

㉓ 人は信じて生きる

 

「正しい事は信じる必要が無い、例えば火が燃えているという事は事実だから、わざわざ心で信じる必要はない」「宗教は信じるものだから、もしかして正しくないと言う事を前提にしている」「キリストも磔刑にあたり、神よ何故見捨て給うか、と神の存在を疑っている」

これは2023.7.30の「理想の本棚」で紹介された本の一部である。

 

「走れメロス」や「さぶ」は他人を信じる美しさを描いている。

一方、オーム真理教や統一教会を信じる人もいる。

 

信じやすい人と疑い深い人はいる。

でも疑い深い人もこの世の万物の真実を知り尽くしている訳ではないから、その判断は間違っているかも知れない。でも自分では正しいと思っている。信じているだけなのに。

 

例えばA友人の心の中までは判ってはいないのに、こうゆう人だと認識している。これも自己観察力に対する信心ではないか。

ごく一部の情報からイメージを作り付き合っているに過ぎないのに。

 

よく考えると世の中こんな事だらけだから、疑いも中途半端にして前に進んでいく。

要するに人間は信じないでは生きられない、そんな生まれつきの環境にある。

 

だから狂信者を責めることは出来ないのだが、自分も含め人は信じやすいものだと絶えず意識することで、危険をある程度避けることは出来る。

 

世の中は広告だらけである。これはこの人の特性を生かした商売である。

この化粧品で皴が消えますの類は多い。これを信じてしまう人が多いから広告業が成り立つ

 

加えて言うなら、自分の考えに過度な自信を持たない方が良い。間違ったものを信じている可能性が多々あるからだ。

 

自戒「自分は信じているだけで、正しいわけではない」

 

㉒ 自我

 

つまらぬ争いの根本は、永遠の過去から引き継いだ人間の愚かさ、つまり自分に執着する心情なのだ。それを何時までも担いでいれば重たかろうに。蝶のあの軽々とした姿に比べて何と愚かな事か。一休禅師の言葉。

 

自我を形成しているものは殆どが、思い込み錯覚なのに、自己愛故に固執して譲らない。

煩悩という曇りガラスを通して、人や事物を見ているから実像とは異なる歪んだイメージを心に刻んでいる。

あの人はこうだ、今の社会はこうだ、自然はこうだ、などなど自分で勝手に決め込んで壁を作ってメクラになってはいないか。

自分がこうだと思っている事が真の姿ではない、その証拠に人によって抱く姿は違うのだから。

 

禅宗で言えば「自我からの脱却」。

自分とは何者か、問題は外部にあるのではなく、自分の中にあるとの教え。

 

自己なんて間違いだらけの欠陥品とまず認識する。

苦しみから逃れる為、自我を可能な限り捨てて、辺りを見直す。

すれば今まで見えなかったものが見えてくることもある。

少なくとも視野が自由になり、苦しみの根源が馬鹿馬鹿しく認識される。

決して捨てられない自我だが、方向性だけははっきりしている。

 

㉑ N君のこと

N君とは中学からの長い付き合いである。

私はどちらかと言うと文学的性向だが、彼は理系で肌合いは違っていたけど、何か互いに惹かれるものがあたのだろう、結果として終生の友となった。

 彼は通産省の技官として最高の地位を得て、その後国立大学の教授も2校ほど勤め、現在もある財団の副理事長をしている。世間で言う高級官僚の典型である。

 

でもその生活ぶりはイメージと随分かけ離れている。

まずその服装だが、彼と上野の美術館に行くべく待ち合わせた時の事を言えば、木陰で登山帽をかぶり文庫本を読んで待っていた。腰に手拭こそ下げていなかったが、大昔の学生時代を彷彿させるいで立ち。彼はそれで精いっぱいの服装なのだろう。相当世間とずれているのに気づかない。

 

乗っている車はホンダ・フィット(それも最近廃車した)、持っているのは擦り切れた皮のカバン(これも周りの助言で最近買い替えたが)。この調子で、他も質素そのものの生活を尚続けている。

 

彼は現在も研究者顕彰選出の責任者だから、いくらスタッフがお膳立てしてくれるとは言え、難しい論文の概要ぐらい頭に入れておかないと総合判断は出来ないと思う。しかし我々友人には専門家としての顔は全く見せない。相変わらずの風采の上がらないおじさんのままである。

 

かと言って決して変人ではない、むしろ常識人なのである。

嘘が無く正直な性格は昔から全く変わらない。

 

よく地位が人を作ると言うが、彼には当てはまらない。

彼は未だ中学生のまんまだ。

 

先に死んだ方が葬儀責任者という古くからの約束だが、私には約束をちゃんと果たせるだろうか、自信が無い。

⑳ 疫病と宗教そして国家

昨夜NHKで東大寺のお水取りの秘儀が放映された。

修二会14日目の夜、大回廊を大松明を振り回しながら走り回る様が有名だが、一般人が見物出来るのはそこまで、だが15日間内陣では深更にわたり門外不出の秘儀が続けられている。

実はこの秘儀は限られた日と場所だけ、寺に関係ある人にだけ公開されており、かつて縁あって私も見学を許された事がある。

 確かダッタンの儀だったと思うが、その異様な影絵と五体投地の音が強く印象に残って忘れられない体験であった。

 

お水取りは752年に始まり以来1300年絶えることなく続けられ、その様式は頑なに守られてきたので言わば奈良時代のタイムカプセル。東大寺は南都六宗のうち華厳宗で唐伝来であるが既に本家には宗派は無く、その源泉はシルクロードの敦煌遺跡に訪ねることとなる。

僧侶が須弥壇の周りを走り回るが、その建築様式は敦煌に同じものがある。私も現地に行ったことがあるが仏像を一周出来る通路が作られ、壁も天井も極彩色に飾られていた。でもこの様式は二月堂だけでなく、現在の日本の各地の寺院に見られる一般的な作りになっていると思う。

要するに須弥壇は仏の世界、極楽浄土でその周りが此岸と言う事で極楽の1日が現世の400年に当たるため、娑婆では忙しく走り回って辻褄を合わせている と言う事らしい。

敦煌で発掘された文書の中に疫病退散祈願の為建立したという石窟があるそうだが、実は東大寺も同じ目的で建立された。

 

735年に天然痘が大流行した。推測によれば国民の1/3が死亡したのではないかと言われている。現在の人口にあてはめると4千万人が死亡した計算になる。太平洋戦争の死亡者が350万人と言われているから途轍もない規模である。疫病を鎮める為あの壮大な大伽藍が743年発願され752年に大仏開眼された。

 

古代から近世までこのような大規模な疫病や飢饉、火災などが繰り返し起こり、その克服には宗教に頼る他手段がなかったことを、我々はもっと想像して歴史を見直さなければいけないと思う。現在でも京都奈良を始め東京でさえ寺の数は膨大である。嘉永・慶応の江戸時代の江戸切り絵を見るとさらに確認出来る。宗教が廃れなかった理由がここにあると思う。

 平安時代10C末の蜻蛉日記に出てくるが病気になると坊主を呼んで祈祷してもらう、坊主(陰陽?)の役目は広い。もっと中国伝来の医師(クスシ)もいたが勿論頼りなかった。

 

ヨーロッパにおいても科学が発達したルネサンス以降も教会が廃れなかったのは、手の施しようがなかったペストや天然痘、赤痢などの疫病が関係していると思われる。

現在宗教の影が薄くなったは医学の発達によりことが大きいのではないか。

お水取りの水は清めるための水、神社の手水場などにもつながる。火も疫病を焼き尽くすという意味がある。私は真夜中の火の乱舞を見て拝火教を連想したが、火は神聖なイメージがあり、それは真言密教にも通じていると思われる。仏教にはシルクロードの匂いがする。

 

古代から中世にかけては絶対君主が支配した。ギリシャみたいな民主制もあったが、大方権力者が治めた。これも深刻な災難に立ち向かう為に必要な体制ではなかったかとも想像できる。

 

というのは、現在のコロナ対策では菅首相の指導力不足が揶揄されている。国難になると強い指導者を人々は求める。ヒットラーやスターリンや毛沢東がそうだ。

このことについては別項としたい。2021.05.31 

 

⑲ ニューヨーク炭鉱の悲劇[読後感]

ビージーズの歌の題名でもある。

村上春樹が同名の短編を書き、クロージングにその歌詞が引用されている。

「みんな、なるべく息をするんじゃない。残りの空気が少ないんだ」

 

余談だがニューヨークに炭鉱なんかない。これは1966年ウエールズでボタ山が雨で崩れ144人が犠牲になった事故を題材にしている。生々しいので国を変えただけ。

落盤事故で閉じ込められた鉱夫達が救助を待ちながら、妻のことを思ったりしている。

でももう死んだと思って引き揚げてしまったかもしれない、と不安が募る状況を歌っている。

 

村上の短編は「めくらやなぎと眠る女」も難解だったが、この方がさらに難解。カフカを信奉していると思うが「変身」等が幾通りにも解釈出来るように、これも解釈が分かれている。

 

一つの見方は学生運動家達がその後社会復帰して馴染めず次々死んでいくというもの。

でもこの作品は1981年で主人公は28歳の設定になっている。活動時期が仮に22歳だとすると6年前即ち1975年と言うことになるが、安田講堂事件が1969年、あさま山荘事件が1972年だから時代が違うと思う。

 

学生運動ではなく若者が「社会システム」に組み込まれていく様を描いたという説もある。

ある程度理解できるが、5人の死者のうち2人が交通事故、1人が油田事故、1人が心不全と殆ど己の意思でなく、偶発性の死であることが上手く説明できない。

 

私の仮説だが、この物語のテーマは「自由」ではないかと思う。

現代社会に生きる人々は多くの制約を受けている。自己をある程度殺さなければ生きてはいけない。経済的原理や政治的原理に支配されるだけでなく、世間という常識、大衆の得体のしれない「流れ」にも敏感に対処しなければいけないからだ。

 

このような状況を落盤事故で閉じ込められた状態で表している。息をするのでさえじっと我慢して自由になれる日を只管待っているが、救助のつるはしの音は途絶えがち、このまま死んでいくかもしれない。

 

喪服を貸した友人は自由人だ、恋人さえ半年単位で変えている、支配されるのを嫌う。

そして自由ではない典型として動物園を提示し、憐憫の情を感じると同時に台風などの天変地異で動物が解放されるのではないかと夢見たりしているのではないか。

 

一方、借りた方の主人公は既に死んだ仲間5人と同類の人間で何か分からないが共通項を感じる。が今は世間に飲み込まれた人たち。かつては 詩人、革命家、ロックンローラーのような自由人だったと思われる。

 

その人たちが自己を曲げ落盤事故の鉱夫のようにじっと我慢して生きている。でも死は死でしかない 弱り目に祟り目と言うことわざのように、更なる落盤で命を落とすのが世の常。

ただ、運が無かっただけだ。

 

では何故主人公だけ生き延びているのか?それは既に5年前に死んでいるからだ。今いる彼は影。長生きしそうだと予告される。殺したのは謎の魔女。この女は「自由について考えたことある」と質問してくる。「ひなげしの絵を描けるか」とも。ひなげしの花ことばは「純潔」。

この女は自由と関係ある、それも本当の自由。魔女は自由を捨てた、又は希求するのを止めた人間を抹殺する。

 

影には自由が保障される。人前に立たず、正体不明、非難されることも気にしない、まるで作者のようだ。

 

自由であることは世捨て人的にならなければなれないのは平安の昔から変わらない。

詩人や革命家やロックンローラーは早死にする。まがい物だけが生き延びようとするが世間はそう甘くない。

 

もう考えるのを止めよう、きりがなく正解が永遠に見つからない予感がする。

 

⑱ 大木の運命は先住民と重なる

その昔、日本中には大木が沢山あった。

でも森を開き耕作地としさらに道や建物に変えた結果、大木も大方消えた。

大木は風雨に耐え何百年と生き永らえて来たのに、その歴史を一瞬にして否定され、人間の為の犠牲者になった。

 

開発の名の下に、後先構わず伐採を続けた結果、大木不足は由緒ある寺社の修理にも事欠くこととなり、今は檜を台湾から輸入している。が、それももう限界に来ている。アマゾンやインドネシアはじめ世界から大木が消えて行く。

大木は再生産が出来ない、時間が必要だから、そのことに人類が気付くのが遅すぎた。

 

植物は3億年以上前に生まれ、生物を育みながら進化を続け今日に至っている。

ホモサピエンスは高々20万年前後に過ぎ無い。大先輩である。

例えば、たった1枚の葉っぱによる光合成は人工的には再現不可能。葉は水と太陽と炭酸ガスで酸素を作り、デンプンやタンパク質など栄養素をも生みだしている。

 

しかも人間のようにガソリンなどを消費しないでタダでそれを作っている。これは奇跡以外の何物でも無い。緑を大事にしよう、大木は特に大事にしよう、言われ尽くされた言葉だが、今日もっともっと再認識されるべきだと思う。

 

**

北米はネイティブ・アメリカンが自然と調和しながら平和に暮らしていた。

そこにヨーロッパ人がやって来て、開拓の名の下に殺戮し、今や狭い居留地に押しこめられて

往年の大陸の覇者は見る影もない。北海道のアイヌもそうだが、その哀れな姿は写真のように

辛うじて生き残った大木の無残さを想起させてしまう。

 

昔は自然の中で、大手を伸ばし生きていた木々が伐採される姿は、自然の中で自由に生きていた先住民が殺戮され追いやられる運命と重なると思うが如何であろう。

⑰ カナメモチ

1番目の写真:7~8M近くある木で日頃は目立たないが、4~5月頃円形の白い花を沢山付ける。その頃、道行く人も見上げて「何と言う木だろう」と其処に居た私に聞いてきたが植物メクラの私が答えられる訳がない。

 後日、そこの家主関係と思われる作業服を着た人に尋ねてみたら「レッド・ロビン」で剪定しなかったので大きくなったとの事だった。

 

帰って図鑑で調べたら、新芽が春先に真っ赤になる、と書いてあったが、写真の木が赤くなったのを見たことが無いので、やや疑問が残った。

 

それから暫くして私はスマホを買い替えた。ある人から「グーグル・レンズ」というアプリを入れると花などの名前がすぐ分かるよ、との事だったので散歩がてら 取り合えず垣根に絞って、あっちこちレンズを向けてみた。

 

2番目の写真:この辺りで圧倒的に多い垣根は「かなめもち」であった。「大カナメモチ」と掛け合わせたものが「紅カナメモチ」,さらに改良を加えたのが「レッド・ロビン」(赤いこまどり)、という種類が多いが丈夫なレッド・ロビンが普及しているらしい。

 垣根は剪定するから、切ったところから赤い新芽が出て葉が綺麗だが、花は左程でもない。

切らずに放置すると、赤い新芽も少ない代わりに、沢山の花が咲き(バラ科)、秋には赤い実をつけるそうだ。

結論として2番目の写真は葉に細かい鋸歯があるから 「カナメモチ」、1番目の写真は「レッドロビン」と言うことになる。

 

尚、google lensもミスをする。カナメモチをテイカカズラと誤認識すること度々。注意!

 

カナメは扇の要に使った為でモチはモチの木に似ているからそう呼ばれるらしい。

かなめは爪楊枝の太いやつで、束ねた骨をくり抜いて芯として使った。今は違う材料。

 

3番目の写真:キンモクセイ

4番目の写真:アオキ

 

要するに、間違いやすい似た木が他にも沢山あるということで、人間の顔と同じで「葉」の色や形状、つや、さらに幹や全体の印象などで区別する必要があり、好きでないと「木」のエキスパートにはなれない。

 

 でもホモサピエンスは高々20万年位の歴史しかないが、植物は3億年生き続けている。

そして進化に進化を重ね光合成という人工的には成し得ない奇跡を生み出し、酸素を生み出し、でんぷんを作り、餌なしで生き抜く方法を獲得し動物を養ってくれている、神様のような存在であることは忘れてはいけない。大切に守っていかなければいけない。 

左の写真は本文とは関係ない「ふよう」の花である。

2020.08.13 朝7:00 晴れ  早朝散歩で、垣間見た見事な色合いにつられ、スナップした。

 


⑯ サラ川 アンソロジー

「第一生命サラリーマン川柳コンクール」は毎年行われ、冊子になっています。

私の友人は何故か私に毎年それを送ってくれています。

私も嫌いじゃないので、熟読していますが、意外にこれと言った「名作」がないので都度多少欲求不満ですが、中でも過去3年間で私が選んだまあまあの作品を以下選びましたので、

ご紹介します。

***

スポーツジム 車で行って チャリをこぐ

うらやましい 電話はスマート おれメタボ

同い年 キムタクHERO オレ疲労

きれいだと ほめてもらった 胃の写真

万歩計 達成目指すぞ ポチに付け

運動会 昔一等 今転倒

 

ちょっといい ちょっとで終わった 試しなし

意見だせ  出したとたんに 担当者

仕事とは 無いと欲しいが あるとイヤ

新人と 話したいけど 話題なし

二次会を 断るつもりが 誘われず

タクシー代 もらった上司と 駅で会う

 

ゴミ捨てに 行かなきゃ俺が 捨てられる

起こす人 妻は今では 起きぬ人

「愛してる」 昔はあなた 、今 諭吉

ハラ減った 「準備できたよ」 猫が先

妻の旅 子と孫連れて オレ置いて

マイホーム 今や二人で シェアーハウス

  

オレオレに ダレダレダレと 聞き返す

おばあちゃん 杖を忘れて 踊りの輪

 

初めての デートにトライ NO再度

かけもせず かかりもしない この携帯

 

⑮ 与謝野公園の歌碑

与謝野晶子は関東大地震のあと、s.2から南荻窪4丁目に住み17年にこの地で亡くなりました。

その旧居跡が与謝野公園として整備され、荻窪中央公園として解放されています。

そこには歌碑が多くありますので、下記写真をクリックして拡大し、→で次、×で終了。

途中で植物のスライドがありますが、これはイネ科の「荻」です。

⑭ 神通橋の丘の上

都立善福寺川緑地公園の川上入口に神通橋はある。

その西側の小高い台地を見上げると、誰しも目につく大ケヤキが聳えている。

ここは昔からの大地主 Tさんの本家だ、敷地を跨いで公道があるから、誰でも通れる。

 

 川の方から階段を登り、左側が農地で右が自宅と生産緑地(植木)。

大分以前に家の人に、中の植木の数々を案内してもらった事があり、貴重な木々があった事は憶えているが、名前はすっかり忘れてしまった。

 

このお屋敷は柊の生け垣で囲まれていて、区のデザイン賞のレリーフがある、何時も綺麗に手入れされており見事。

 

何故このお屋敷をご紹介するかと言えば、ここのケヤキが一番好きだからである。

初夏から真夏にかけて、爽やかな風が高台のケヤキの葉を揺らし、青い空と語り合う様な響きが聞こえてくる。私にも何度かいやな事があった、その都度このケヤキに何度救われた事か。

 

 2~3年前迄は芋を栽培しており、秋になると幼稚園児の遠足芋ほりで、黄色い歓声が拡がって、絵になったものだが、輪作の為かどうか分から無いが、今年はトウモロコシが同じ場所に植えられている。

私がまだ元気なうちにもう一度子供たちの歓声を聞きたいものだ。

2020.7

 

⑬ 尾崎熊野神社のクロマツ

杉並区No.1の黒松である。

目通り3.27m、根廻り5.5m、高さ32m、樹齢400年以上。

でもこの木は相当斜めに生えている。でも支え木も無く32m自立している。

しかも木肌がとても美く、精気を放って、シュットしている。

じ~と見ていると返す言葉も無い,堂々として、気品すらある。

 

400年前と言うと大阪夏の陣1615、家康死去1616、秀忠の時代。

神社は鎌倉時代創建とのことだから、この辺りは既に原野ではなく農村が拡がっていて、もしかしたら眼下の善福寺川の水に感謝し、氾濫予防の祈りを込めて熊野三山神社を勧請したのかも知れない。善福寺川尾崎橋/杉並第二小学校の近くにある。

 

全国に熊野神社は協会の調査によると4,774社あり、東京にも158社在るとの事だ。

熊野信仰はもともと、熊野川信仰と言われている。水は農業の基本であり有り難いが、たまに

災害ももたらすから、崇拝すべき祈るべき対象なのだろう。

 

偶然だろうが、同区内の和泉熊野神社にも同じ大きさの黒松の大木がある。

これも神田川(上水として整備される前は平川と言う川で大雨で氾濫した)という水際にたまたまある。2020.7

⑫ 阿佐ヶ谷会の会場/青柳邸

阿佐ヶ谷会は戦前からあったが、戦争で中断し戦後まもなく復活した。

 その会場となったのが左写真の青柳瑞穂邸である。阿佐ヶ谷南3丁目に現存している。

青柳は1971年に他界している、そのこともあってか会は72年に終ったらしい。

 

 今は表札もなく、ポストも外され、空き家の佇まいだが荒れている訳でも無く、文士たちが出入りした玄関も健在で、今にも井伏や太宰や上林などの影がそこに見えそうな往時を彷彿とさせる雰囲気を残している。ちょっと感動した。

阿佐ヶ谷会はこの青柳邸の離れ4.5畳と6畳をぶっ通しで行われたとの事だが、左のモルタル作りの建物はその離れ部分に建て増したもののようだ。モルタル作りの左奥にあるのが上の写真の玄関部分、繋がっている。

 娘さんである音楽家の いずみこ さんはブログで時折ピアノ練習で使っているようなことを書いているで、上京の際には使う事もあるのだろう。

左の写真の赤い屋根は「下田質店」である。終戦当時作家達は特に苦労した。

同じ町内に住む 外村繁の奥さんと青柳瑞穂の奥さんは顔を合わせ、生活の苦しさをお互い嘆いたと書いてある。この質屋も活躍したらしい。

 質屋は昨今斜陽で、未だに残っている事が不思議だがこの質屋は新築し、入口などは青山辺りのレストランを思わせる洒落たデザインで、盛業らしいのに驚いた。

                                                                                                            2020.6.27

 

⑪ 大ケヤキ/高円寺から五日市街道

 ↑高円寺駅南口から左に歩いて5,6分の所に曹洞宗「宿鳳山高円寺」がある。

参道が長い立派な寺で家光が鷹狩のおりに度々立ち寄ったとある。

本堂の左前に、区で2番目に大きく目通り3.6Mある大銀杏がある。寺の創建が1555年ということだから、既に古木ながら後で植えられたものだろう。

古木はどれも肌が荒れている。ファウンデーションでも塗りたくなるが、若いのには太刀打ちできない人間と同じだから、目を瞑ろう。

尚、昔この一帯に桃が植えられていたことから「桃園」の地名が生まれ、そばを流れる人工水路を桃園川としたとの事だ。

五日市街道の起点は高円寺の青梅街道である。昔の起点から来る道と現在の起点から来る道の交わる所に大法寺という日蓮宗の寺がある。そこの墓地の大ケヤキが左の写真である。

上の部分で枝分かれしているが、大きい。墓地だけに誰気兼ねなく枝を伸ばして聳えている。

 五日市街道は江戸時代は今の環八にかけて7曲がりと呼ばれていた難所だったとの事だ。それは善福寺川がUの字に大きくカーブしていることからも分かるように、アップダウンがある複雑な地形のせい。

でも後年緩やかなカーブの新道に付け替えられ、更にごく最近拡幅工事も終わり、沿道には新しいマンションやビルが建ち、田舎道の面目を一新した。ちょっと寂しいが。

↑写真2枚説明 以下

 街道を更に進み尾崎橋を渡り暫くすると、右側歩道にケヤキ並木が残っている。どれも大木で9本あり矗々(ちくちく)と伸び揃っている。右隣が都立善福寺川緑地公園なので、緑つづきのほっとする雰囲気が歩き疲れを癒してくれる場所。右の写真は同じ関東バス五日市営業所前のバス停である。宮崎駿監督のトトロに猫バスが出てくるが、林の中のバス停のモデルになったと聞いた事がある。しかし、あれはs.30年頃の所沢を舞台にしているので違うと思うが、林の中のバス停という設定と雰囲気は確かに似ている、65年前のこの辺りはまだ、半分農村地帯だったのだろうから。

 

 この辺りの街道にはケヤキの大木があるが、これは並木として植えられたものではなく、北風避けの屋敷林だったところを拓き道を作った残りの木々と言う事だ。

その後拡幅工事や舗装の為に街道筋の根がコンクリートで固められ、何処も可愛そうな状態になっているが、結構持ちこたえている生命力にも又驚かされる。

 

街道を更に西に進み、環八を超えて3百M位の右側にステーキの「スエヒロ」のファミレスがあるが、その反対側のマンションの玄関わきに大ケヤキがあった。計ってみたが3M弱あった。

 

建築にあたり、切り倒すのが憚れたのだろう。これも大木の持つ力を感じさせてくれた。

 

←写真

写真2枚 ↑

少し進むと右側歩道にケヤキ並木が7本並んでいる。ビムスポーツプラザやインターナショナルスクールの前である。これも皆大木であり、中には計って無いが3M超と思われる凄いのがある。でも写真の通り、どれもコンクリートで固められており、奇形化しているのが2本ある。

行く末が心配な環境ではある。

 この宮前一帯は街道から右が大地主のU家の森であった所で、現在は小学校や介護施設、体育館、マンション、分譲地に姿を変えているが、所々に木々が少し残っていて、大きなケヤキもある。

⑩大クス/荻外荘

荻外荘(てきがいそう)

荻窪地域で一番格調の高い住宅地はこの一帯であろう。

大きな松の木に囲まれたちょっとした高台にあり、下の善福寺川越しに富士山が望める緑多い風致地区である。

 

s.11に宮内省侍医頭であった入澤達吉が築地本願寺を設計した伊東忠太に依頼して建てられた。しかし翌年、それを近衛文麿がとても気に入り譲って貰った。ネーミングは西園寺公望公である。

荻窪の外との事だが、駅にも近い荻窪の核心地区なので決して「外」ではない。多分「荻窪という郊外」を略したのではないかと推察する。

 

ここでは開戦前の重要会議が度々開かれ、敗戦の責任を取って文麿はピストル自殺をここでした。このような歴史の転換点の舞台になったという事で「国指定史跡」になっている。

 戦後も近衛家が住み続けていたが、敷地内には高級マンションが3棟建ち、残りも処分されそうになった処を、区が買い取り公園として残す計画が進行中である。

 

工事は建物回りの庭の復元を残すのみとなっているが、正式公開に先立ち庭続きの下部芝生広場だけがオープンして、子供達が駆け回っている。

写真はその公園にある、くすの木である。以下読んで頂きたい。

 

左の写真がそのくすの木の根元部分。

大木で私が計ったところ、目通し4.5mあった。

左下に四角いものが写っているが、大きさが分かる為私が置いた運転免許免許証である。

 

 くすの木はケヤキより大きくなり、全国No.1は鹿児島県蒲生の24Mが有名である。

小学生の頃親父に連れられて見に行った事があるが、

根元のウロが広い部屋になっていて、子供の遊び場になっていた。今は保護されてウロの入り口には鍵付きのドアーがつけられているようだが。

 

全国のくすの木のランキングが発表されているが、4.5と言うのは82~3位ぐらいに当たるだろうか。この木は全く有名ではないが、都内でも隠れた巨木ではないかと嬉しくなった。

今回も大きな屋敷もしくは、神社にしか巨木は生き残れないことを再確認し、将来に対し暗い思いを抱いてしまった。

 

⑨ 大ケヤキ/南荻窪

これは杉並区No.2のケヤキである。目通し4.6M。

南荻窪2丁目のU邸にある。この辺りの有名な大地主である。

 

高い生け垣に囲まれている中にあるので近寄れないが、この度こっそりその隙間から中を覗いてみた。

そしたら、写真ではよく分から無いが胴回りが半端なくデカいのにびっくり。そしてその醸し出す重量感に息を飲んだ

 

このケヤキは目通しだけでなく、背も高く、さっそうと天空に枝を伸ばしている生命感溢るるケヤキなのだ。

 

 私はこの地元に住んでいるから、この門前を良く通る。だから良く知っているつもりだったが、首を突っ込んで根元を見たのは初めてだった。

大いに感謝! 覗き見は悪いと思うが、ケヤキが呼んでくれたとお許し下され。

 

別件だが南荻窪1丁目にも一族のU邸がある。そこにもケヤキの大木があるのだが、最近敷地の一部を宅地分譲地で売り出し、その際母屋も新築されたのだが、その時主幹を切り落とし坊主状態になってしまった。残念!

ただ、根元は残してくれたので何年が後には往年の姿に戻るだろうが。

 

尚、荻窪2丁目に中道寺という立派な寺があり、その楼門が区の保存建物になって、時々見学者が来るほどの名刹だが、この創建は千葉氏の家臣であったU家とのことで、未だに「家」を継続されている事に頭が下がる。

⑧ 大ケヤキなど/荻窪八幡神社

写真上段左が拝殿の右側にある区No.4のケヤキ 目通し3.3Mである。

御覧の通り落雷等により損傷甚だしいが拝殿の回廊内にある為、大切に保護されている。

 

写真上段右は拝殿の左側にある「槇」である。痛々しいが説明文にあるように貴重木なので手厚く処置がなされている。

 

尚、回廊の外であるが境内には胴回り3.5Mの銀杏の大木もある。

⑦ 大ケヤキ/上井草2丁目

杉並区の南の高井戸には大地主でもある内藤家が土地を提供し「ごみ焼却場問題」が決着した

一方北の雄は練馬の井口家である。杉並区井草地区にも根を下ろしている。

 

*写真上段左2枚は上井草1丁目の井口家である。この辺りのみならず天沼、荻窪、宮前地区、他にも「井口」の表札はかなり見かける、未だに相当な「家」である。

宮前3丁目に慈宏寺という大きな寺があるが、これを井口山という。これは寛文13年(1673)に大宮前新田開発をした名主の息子が建立したと縁起にある。

 

上段右の写真は上井草2丁目のw邸の玄関である。奥に30Mはあろうかというケヤキが数本見える。下段左は同じお屋敷の西側バス通りからのケヤキである。大きいが個人宅なので近寄れない、とても残念。住宅地図によると中にはテニスコートも書かれている(’97)。凄いお屋敷があるものだ。

 

下段中の写真が杉並区No.1ケヤキである。目通し5.6M。

昔は農地にフェンスが無く、もっと近くで見ることが出来たが、今は立ち入り禁止で「高嶺の花」。

前の印象では古木で少し痛んでいたと思うが、遠くから見る限り樹勢盛んだ。但し高さはw邸の方が高いと思う。

w邸といってもこのケヤキのある農家もwさんで隣通しに近いから御一族に違いない。

 

最後の写真はNo.1ケヤキからほど近いA宅にあるもの。これもデカい。写真では大きさが分から無いが立派だ。ここの敷地も大きい。要するにこの辺りは農地が広がっていたのに、次第に宅地化されてきて、まだ頑張って敷地を維持している人の屋敷に大ケヤキが残っているという事だろう。

 

土地を残すのは難しい。バブル期に踊らされ財産を失った大地主が近隣に2軒ある。

大ケヤキは運命を共にするから胸が痛む。

 

⑥ 大ケヤキ/高井戸東3丁目

 <前置き>

昔、奥多摩にある「檜原都民の森」の森林館から三頭山に向かう登山道の右斜面上方に途轍もない「木」を発見し、体が金縛り状態になった経験をした。これがその後も巨木に憧れを持ち続ける初めであった。

これを後から調べたが,目通し(地上1.5mの胴回り)4.5M、高さ30Mのモミの木。崖下の登山道から遥か見上げるせいもあるが、地上から空に向かって真っすぐに巨大な柱が空を貫くように聳え立っている様は「木」の概念を超えて文字通り圧倒され言葉を失った。

 

 一般的に巨木と言うと根廻りが空洞になってたり、台風で主幹が折れていたりして、確かに目通しは大だが、はじける生命力は不足する。だが私の好きなのは まだ樹勢が盛んで空にぐっと延びた高さのある巨木だ。チマチマと世間の目を気にし、ビクビクと生きている自分が何と矮小な存在なのか、それと正反対な堂々とした「様」「静」。

 

 巨木に対するこのような畏れは何も私だけではなかろう。我々の祖先も「御神木」として崇めて来たし、現代も鎮守の森に残る古木にしめ縄を回らしているのをよく見かける。

「巨木」はそれ自体魔力を放し続けている。間違い無い。

圧縮された長い時間が眠っている、江戸時代、戦国時代が現代人に何かを伝えようとしているようではないか。

 

<本題>

杉並区のケヤキのランキングが発表されている。1位 上井草2丁目 5.6M、 2位 南荻窪2丁目4.6M、3位 高井戸東3丁目4M。

 上記最後の写真が3位のケヤキである。旧横倉家跡地であるが現在は住宅展示場になっている。この他にも数本の巨木が敷地内にあるが、どれもコンクリートで根が固められ痛ましい。

この巨木も排気ガスを吸わされ、危険なので枝下しもされている、頑張れ!

人見街道沿いには並木としてのケヤキもこの区間だけのこっており、貴重な緑のオアシス、

何とか保全したい空間。

 

 最初の写真2枚は高井戸東3-9に建てられた、内藤家の旧地に建てられた340戸の4棟マンション敷地にあるもの。北側から見ると緑の中にマンションがある感じで、東側地境には誰も足を踏み入れられない林が残されているが、その一角にこのケヤキの大木を見つけた。3本映っているうちの真ん中である。高い塀が回してあり近寄れず仔細は不明なれど相当な巨木とみた。木にオーラを感じた。高井戸東3丁目では私的にはNo.1.

 

3枚目の写真は同じ内藤家が経営するゴルフ・スクールと9Hのショート・コースゴルフ場の入口駐車場にあるケヤキである。高井戸東3丁目11。ここにも数本古木が残されている。

 

ケヤキは落葉して掃除が大変、台風で枝が折れたり結構都会で残そうとしたら手間がかかる。

ケヤキが先に在って、その後人が密集して住み始めた事が問題。残すには人間の我慢も必要。

 なお、ケヤキの大木は大地主の敷地に残っている。地主が手放せば終わり、地主も頑張って貰わねばと思う。

 

⑤ 聖書の言葉

高井戸東4丁目を歩いていたら、

住宅街の中に花卉農園らしき広い敷地を発見した。

門が開け放されており、自由に御覧下さいみたいな感じだったので、入って季節の花を楽しんでいると

唐突に、写真の立て札が目に入った。

 

読んで見たが、最後の言葉の意味が分から無い。種を育てるのは神だから人は育てるお手伝いをしているだけ。石は神が作ったものだから人がそれで建物を建てても、それは結局神が作った物で人はお手伝いをしただけ。人は神の僕として良き働きをしなさい。

 そこまでは理解できるが「人が神の畑」「人が神の建物」という意味が分から無い。事々左様に聖書も注釈なしには読めないことが多い。多分誤訳が定着したこともあると推測する。

 

尚、花園を出て敷地の端にある古い木造建築の入口に(宗法)聖書友の会 中央教会の看板が架かっていた。20-25番地

 

 

④ 阿佐ヶ谷会・天沼在住作家旧宅を訪ねて

阿佐ヶ谷会というのは、戦前から戦後にかけてこの辺に住む作家達が集まり、将棋をしたり飲んだりした交遊会のこと。

 

井伏鱒二をほぼ中心に上林暁、青柳瑞穂、外村繁、亀井勝一郎、河盛好蔵、太宰治、三好達治、火野葦平、藤原審爾、伊藤整、河上徹太郎、中島健蔵、中野好夫、等々錚錚たる人達が名を連ねている。

 

がしかし、当時は駆け出しの若造か、売れても純文学に拘って売文を良しとしない人ばかりで、貧乏と縁が切れない人が多く、ちびた下駄を履いて戦前は駅前の中華料理店ピノチオ、戦後は青柳邸に集まって、酔っぱらったらしい。

 

何故こんなに文士が集まって住んでいたかと言うと、この辺りはまだ農地が殆どで、都心に近い割には土地が安かった為と言われている。

 

特に今回ご紹介する天沼地区は荻窪の下町的なところで、農地を無計画に宅地化していった為

道が碁盤目ではなく、斜めだったり、曲がっていたり、角が三角になっていたりして、迷い易い。最近道も拡幅されつつあり、随分明るくなったが、まだ線路に近い所は狭い路地が残り、

アパートが密集している。

 

天沼と言えば鎮守の天沼八幡社がランドマークで、その奥には湧き水の弁天池がある。

そこには、郷土博物館の分室もあり緑の多い公園になっている。

練馬区関町の千川上水から分流した桃園川がこの池に流れ込み、更に中野の神田川まで流れ出して付近の田畑を潤したが、現在はすべて暗渠となり、池も殆ど埋め立てられ小さくなった。

 

昔は池も大きく、雨が降ると一帯が沼になる低地だったので天沼の地名となったという説が有力と区のh/pは伝えている。

 

上記の写真は天沼2丁目にあるs.27直木賞作家 藤原審爾の居宅跡である。跡といっても表札は元のままだから、ご遺族が住まわれているらしい。敷地はとても広く裏の桃園川緑道まで抜けている。コンクリート建ての立派な建物が2つと、多分審爾さんがお住まいだったと思われる木造の和建築が同じ敷地内にあった。個人のお住まいの写真を載せるのに憚れるが、グーグル・アースにも掲載されているのでお許し頂きたい。

 

左の写真の真ん中の黒い建物が天沼1丁目にあった上林暁の旧宅跡である。昨年土地が処分され、現在は関係の無い新しい建物が建っている。

 

往時は1Dkの平屋陋屋で赤貧洗うがごとしの生活だったらしい。

金稼ぎを良しとしない一徹な兄を終身にわたり支えた

妹の睦子さんも亡くなった。2度の脳梗塞で字が書けなくなった上林の口述筆記をして名作をものにした美談を残し。

この場所を探すのには苦労した。青柳瑞穂さんのお孫さんである いずみこ さんは文学散歩の案内をする下調べに探したが、結局分から無かったと書いている。

私は偶然に手元にあったゼンリン住宅地図’97を虫メガネで1軒づつくまなく探し、2日目に探し当てた。

 

左の写真は文化勲章を貰った河盛好蔵の旧宅である。

藤原審爾宅の道路2本南に位置する。

建物は立て替えられているが、表札に同じ名前があるので、ご遺族だろう。

この前の道に立つと、河盛の上林追想が浮かんでくる。

:夜おそく「さらばラバウルよ、また来るまでは」と歌う声が聞こえてくる。それがだんだん近くなって我が家の前まで来ると、「河盛君」と大声で呼ぶ、だまって息を殺していると、こんどは「河盛!」になり、それが2~3度つづいたあとで「もう寝たか」とつぶやくように言って、また「さらばラバウルよ」と歌いながら遠ざかってゆくのである。中略 上林君の気持ちがこちらにも乗り移って、次第に侘しくなってくるのであった。

 

 当時も今もそうかも知れないが、私小説はバッシングを受ける。上林を認めない同業者もいたのだろう、又売れないが為の貧乏だが、それでも自分の歌を歌う他の自分を知らない、生真面目に不器用に生きる彼の酔わざるを得ない深夜の声が河盛を侘しくさせたのだろう。

尚、上林は荻窪で飲むと帰宅の途中に河盛の家があり、両者間は徒歩で7~8分だと思う。 

③ 坂の上のケヤキ公園

西荻窪駅と言えば、清張など文人御用達の「こけし屋」が有名だが、その線路を挟んだ反対側を青梅街道に向かって4~5百M進むと善福寺川に出る、関根橋である。

 

これを川沿いに左折し3番目の原橋を左に上ったところにあるのが表題の公園である。

西荻北4-38-6 855㎡ の小さな公園である。

この司馬遼太郎的な夢ある名前に惹かれ、散歩がてら訪れただけだったのだが、なかなか由緒がある木だったのでご紹介する次第。

 

まずこのケヤキは株立ちとしては根廻りが区内No.1という大きさで、既にS.28に景観重要樹木第一号として区が指定している。付近の人は「トトロの木」と呼び親しんでいたらしい。

 

ところが伐採計画が持ち上がり存続が危ぶまれところ、懸命な住民運動により区が動き、公園として整備された(H・22)。木が住民にとって無くてはなら無いほど大きな存在だった、そんなケヤキの持つ力を再認識させられた。

 

私は南荻窪に住んでいるが、町内にあった巨大な桜の木やケヤキがどんどん伐採され、建売住宅に変わって行く今日この頃をみると、これは奇跡に近い事かも知れない。

②消えた町名「馬橋」(馬橋稲荷神社を訪ねて)

地名は歴史を遡る作業が必要なので、まずは江戸時代の杉並の概要を調べてみた。 

 

中期の宝暦8年/1758 の記録によれば(堀江家文書)、

現在の杉並の地は20ケ村に分けられていて、支配別村高表という各村の生産高が記載されている。検地は幕府が行っているからこれは公文書の写しであろう。

 

石高の一番高いのが上高井戸村(今の高井戸駅周辺)、低いのが下荻窪(今の荻窪1~4丁目)、石高は土地開発の進捗度や水利で決まるので今日の繁華具合と違うのが面白い。

 

以下は所有者別分類である。但し殆どが鷹狩御用地だったので、2重の支配を受けていた。

*幕府直轄領(上・中・下高井戸村、高円寺、大宮前新田、久我山、馬橋、成宗、田端、上荻窪の一部、松庵、永福寺の一部、和泉の一部)

*山王社領(阿佐ヶ谷、堀之内、天沼、下荻窪)

*今川家知行所(上・下井草)

*内田家知行所(和田、和泉の一部、永福寺の一部)

*6同心知行所(上荻窪の一部)

 

20ケ村のうち現時点の住居表示で無いのがが、中高井戸、馬橋、成宗、田端、4か所で、

うち成宗と田端は成田として一つに纏められ辛うじて名を残したので、消えた地名は2つだ。

 だが中高井戸というのは別に東・西・上・下高井戸と言う地名が残ったので完全に消えて無くなったとは言えない。そうすると、ただ馬橋(まばし)だけが消された事になる。

何故だろう。

 

理由は今のところ不明で今後の調査に待つとして、JR阿佐ヶ谷と高円寺の中間あたりの線路を挟んだ南北の一帯を地元の人は今でも馬橋と呼んでいる。(地下鉄新高円寺駅の北)

 

正確には高円寺北3,4丁目とか南3丁目なのだが、バス停、公園、学校、神社、児童館、ゆうゆう館、区会議室、信号、消防署等々、公私ともに馬橋が使われており、区民も普通に馬橋と言っている。馬橋という語感もいいし、南、北 何丁目という現代的な冷たい感じより、どこか懐かしい昔の匂いを感じるのかも知れない。

 

上記写真は馬橋稲荷神社である。

でも実は足穂稲荷大明神と呼ばれていたを、昭和40年10月に住居表示変更で馬橋の名が消えるのに抵抗して、氏子達が改名したと沿革に書いてあった。これはこれで問題で歴史を無視する行為と思うが、それほど残念だったのだろう。

 

その昔馬橋村は農村で、坂下の桃園川周辺には田圃があったとの事だ、それを見下ろす高台に位置し、豊作を祈る農業の神として崇める絶好の場所であったろうと、思いをはせた。

 

尤も消えた残念な町名は全国至る所にある。上野、神田・・・。わずかに市ヶ谷の高台に残っていて、少し歴史を感じられるぐらいだが、もし自分の住んでいる地名が江戸時代からの由緒ある地名だったら、何か誇りを持って暮らせるのではないかと、改名の愚策に憤りを感じる。

 

このお稲荷さんは大きい。鳥居が3連荘で並び、裏門2か所も加えると合計6っつある。

社殿も立派で管理も十分、さわやかな風が参道を抜ける初夏あたり、又訪れてみたい。

白狐の人形の中に願い事を書いて奉納するとご利益があるとの事だ。(2020.05.18)

 

①井伏鱒二と太宰治

井伏鱒二は荻窪の住人だった。

太宰は三鷹のイメージだが、荻窪にも住んでいた。

両者の関係はどうだったのだろうか、

夫々の旧居を訪ね考えてみた。

 

 

井伏は昭和2年、29歳の時早稲田から引っ越して来て、平成5年95歳で死ぬまで荻窪に住んでいた。この辺りの佇まいが好きだったのか、移るのが面倒だったのか分から無いが66年という異例の長さだった。

 

彼の著書「荻窪風土記」によれば、引っ越して来た頃は荻窪はまだ農村で麦畑が拡がっていたらしい。畑を耕している農夫にかけあい坪7銭で当地を借りたとある。

 

上の写真はその旧宅であるが、駅から10分程の清水1丁目にあり、青梅街道と環八の交差点である四面道にほど近く、閑静な住宅街にありながら慎ましい感じの家で、今でもちゃんと手入れされている。

東南の角地で玄関は向こう側の南面道路の方にあるが表札が無いので、ご遺族が住んでおられて人目を避けておられると推察した。

 

昭和2年と言えば大震災の4年後で、都心から移住してくる人や寺社が多く、この辺は大変貌の最中。かつて西の鎌倉と呼ばれた自然豊かな武蔵野の風情は失われつつあった時期にあたる。

 

明治24年には甲武鉄道、大正10年には路面電車が青梅街道を新宿から荻窪まで走っており、街道筋には既に商店が並んでいたが、ちょっと奥に入るとまだまだ、農地や疎林が拡がり、田舎が楽しめたのだろう、

好きな釣りを近くの善福寺川で楽しむことが出来た様子が風土記からも偲ばれる。

 

ただ一つ、井伏は四面道の語源に南側にあった秋葉神社の常夜灯を挙げているが、現在荻窪八幡社境内に移設された灯篭は極めて小さく、違うような気がする。単に四つの村の接点と言う説(天沼、上井草、上荻、下荻)の方が納得できるが、どうだろうか。

とすると、地元で「しめんとう」と今でも呼ぶ人がいるが、「しめんどう」の方が正しいという事になる。 

左の写真が常夜灯である。人の背丈位の高さ。道を照らす街灯として設置されたものは普通は背がもっと高い。これは小さいから夜の参拝者用で宗教的意味合いのものと思われる。土台に常夜灯講中と彫ってある。

 井伏鱒二は「四面塔」と書いてあるものを見たとも言っている。

何れにしても、明治初めの地図には、四つの村の近接点一帯に四面道と言う字が印刷されている。要するに交差点の呼称ではない。四面道にあった秋葉神社の常夜灯を「四面塔」と呼んだのではなかろうか(仮説)。

四つの村の接点は現在の交差点より、青梅街道を西に進んだ八丁あたりとのことだ。

 

 

一方、太宰治と言えば三鷹である。

「桜桃」などに自宅の様子が書かれている。墓も鴎外と同じ三鷹の禅林寺にある。

 

ところが荻窪にも住んでいた時期がある。

24歳から29歳までの5年間。

 

① s.8年2月(24歳)天沼3丁目(現・本天沼2丁目) 

②  〃 5月     天沼1丁目(現・天沼3丁目2)駅に近い為の引っ越し・・本人弁

上記②の日付は確からしい太宰年表のものであるが、井伏鱒二の「太宰治-その印象記」によれば 翌年の春となっている。井伏の勘違いなのかどうか不明。

③s.11.11月(27歳)天沼2丁目(現・天沼3丁目特養の敷地)

④S.12.6月(28歳)~13.9月 天沼1丁目(現・天沼3丁目)

 

上記写真は③の昭和11/11~12/6の7か月暮らした碧雲荘というアパートの跡地だ。

前年10年3月に鎌倉で首つり自殺未遂、4月腹膜炎で入院の際の鎮痛剤パピナールがその後中毒となり、1日50本の注射という極限状態に達し、翌年2月済生会入院のあとさらに、10月には江古田の東京武蔵野病院という精神科に入院させられた。根治したらしく11月に退院。

 

そして同棲者の居た光明院裏の下宿に退院した翌々日、碧雲荘アパートに移転した。

翌3月は水上で初代と心中未遂を経て6月には離婚という、壮絶な苦難の時期にあたる。

 

上の写真の左側の門を入ると、現在ウエルネス荻窪という特養の立派な建物が建っているが、そこに碧雲荘があった。大工が 腕を凝らして作った建物でフアンの希望を区が汲み、今は大分県湯布院に移築され歴史的建造物として保存されている。さすがだ。

 

太宰は碧雲荘のあと、12/6~13/9 の間 鎌瀧という下宿に居た。④参照

体調が少し良くなったのか、この間文学者仲間が押しかけ、交流が盛んだったようだ。

 左の写真のコンクリート3階建ての場所にそれは在った。四面道交差点から青梅街道を駅寄りに歩き、葬儀社を左折した奥まった所で、路も狭く少しゴタゴタした雰囲気であった。

同じ現天沼3丁目でも②は駅の真ん前だが、③は青梅街道を四面道に寄った場所。どちらもその路地裏にあった。

 

何故、井伏鱒二と太宰治の旧宅を並べて紹介したかと言うと、太宰は井伏に弟子入りしており、井伏は公私にわたり面倒をみていた。二人の間柄は仲間と言うより親子に近いと言う人もいるぐらい近かったらしい。

 

 実は私もそう思った。何故なら碧雲荘は井伏宅より徒歩5分、鎌瀧に至っては2分の至近にある。才能がありながら自己破綻願望に囚われた若者を心配する、井伏と周囲の配慮がうかがえるではないか。 

 

太宰が死んで72年、井伏が死んで27年、街は今もどんどん変わっていく。

井伏が通った寿司屋(四面道の山薪、教会通りのピカ一)も今は無い。

でもどんなに変わっても、その土地に染みついた歴史の匂いを嗅ぎつければ、時代を遡れる。それが街歩きの醍醐味ではないだろうか。 

 

尚資料の多くは 太宰ミュージアム運営委員会の年表及び「阿佐ヶ谷会」文学アルバム、及び区ホームページを参考とした。

                                     2020.5.16