☆4.5

1965   赤ひげ 日 /黒澤

1968 ウエスタン 米・伊 No.11

2018 グリーンブック 米 No.5

2019 山懐に抱かれて 日 No.7

 

☆4.0

1942  ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ/G・キャグニー

1981  愛と哀しみのボレロ/C・ルルーシュ 仏

1986  キネマの天地 /山田洋二

1993   パーフェクトワールド/C・イーストウッド

2012 偽りなき者 デン No.3

2012   横道世之介 日 No.4

2017 シェイプ オブ ウォーター 米 No.1

2017 3月のライオン前後編 日 /将棋

2018 運び屋 米  No.2

2018 ボヘミアン・ラプソディ No.6

2018  未来のミライ 日 /細田守

2018  ホテル ムンバイ /No.13

2019 天気の子 No.14

 

☆3.5

1936 サボタージュ 英 No.8

1959 ワーロック 米 /H・フォンダ

1961   突撃隊  米   s・マックイーン

1970   いちご白書 米 1968/学園封鎖

1972 荒野のストレンジャー 米 No.12

1982 48時間 米 w・ヒル

1983 ブルーサンダー 米 新形ヘリ

2007  しゃべれども しゃべれども 日

2018 翔んで埼玉 日 No.9

2019 僕のワンダフル・ジャーニー No.10 

No.14

天気の子

    2019/114分

 

  新海 誠 監督・原作・脚本

  声優:帆高/醍醐虎汰朗、陽菜/森七菜、夏美/本田津翼

     須賀/小栗旬

 

純粋で穢れを知ら無い無垢な魂、貧しくても健気で明るく人生に立ち向かう清々しい若者、このような主人公たちのイメージを作り上げ、こんな在り方をややもすると忘れがちな観客の心に届け浄化させてくれるそんな作品と思う。

こんな主人公たちは前作「君の名は」と同じだが、本作は一応の感動を覚えるものの、結局訴えたかったテーマって何? と分からなくなってしまうので評価に惑う。

 

今年はサリンジャーの生誕100年だそうだ。ある雑誌で「The Catcher in the Rye」が小道具として登場する と書いてあったので本作を見に行った次第。

私はサリンジャー・フアンでは無いが世界中に信者がいるらしい。もしかして監督もそうかも知れない。何故ならば、主人公ホールデンも16歳、帆高も陽菜も16歳、「君の名は」の立花瀧も高校2年生。

 

ホールデンは純粋で無垢でないものが極端に嫌いで、世事にまみれた大人や、欲望丸出しの同僚が許せず、世捨て人みたいな「落ちていく人」となっていく。いわば精神的潔癖症で社会的応力ゼロ。日本版「人間失格」

 

新海監督は蒸留水のような真っすぐした少年達が好きなのだろう。こんな少年は大人になるにしたがってそのままでは生きにくいので「堕落」するか、何らかの不幸が待っている結末が普通と思うが、監督は2作とも夢の世界から現実世界にそのまんま還俗させている、本作でも悪人は誰一人登場せず、要するにハッピーエンドなのだ。

ここがサリンジャーや太宰と違う所。映画のエンターテインメントといえばそれまでだが。

 

この作品の最大の長所は地球温暖化による集中豪雨を取り上げた先見性だろう。

セカイ系、エヴァ系とか地球危機を救う物語だが、台風15、19号による堤防決壊や内水氾濫が毎日のようにTVで未だ流され、甚大な被害に驚かされている昨今、実に時宜を得ている。

 

ラスト近く、長雨で東京の湾岸部の多くが浸水し(江戸時代に戻る)、高嶋平に引っ越したおばあさんが登場する。ところが、高嶋平団地は調べたところ海抜4mで荒川にも近く、多分安全な場所ではないように思う。

さらに、浸水による被害は水道、下水、ガス、電気などライフラインをも破壊するが、本作ではそんな想定がなく、浸水域以外はネオンさえ煌々とついており、家に侵入した水も綺麗なままで、単なる浅いプールのように描かれている。

 

要するに、洪水専門家による検証が全くなされていないので、全くリアリティーが無い。

着眼点は良かったが、内容が伴わかったのは残念。

 

お天気は人知の及ぶ所では無いので、我慢して生きろという事なのか、永遠の愛を語ったのか分から無いが、クロージングに今回も無理があると思った。理由 ①人柱や生贄は死ぬからこそご利益があるのでは ②保護観察だから我慢して、期限を切れた2年後に彼女に会いに行くというのは如何なものか、会いたいと思う気持ちは抑えられないと思うが、いい子過ぎないか?

 

いろいろケチをっつけたが、新宿の町はかなり忠実に描かれているし、全体としてとても綺麗な画で、音楽、声優なども申し分ない出来で、夢をみた気分になれる映画だった。

 

No.13

ホテル・ムンバイ

     2018/123分 オーストラリア、米、印

 

アンソニー・マラス 監督

 

デヴ・パデル、アーミー・ハマー、アヌカム・カー

ティルダ・コバン=ハーヴィー、ヴァーナ・グルーム

 

タージ マハル ホテルで実際に起こったイスラム テロ集団による占拠事件を題材にしている。

犠牲者は100名近く出たが、その半分がホテル従業員で、命がけで顧客を守ったその職業魂が後日評価され、宿泊客による感謝の集いも催されたとの事だ。

 

作品の見所は、実行部隊に携帯電話で指示を出すボスの的確な判断能力、それによって次々に殺戮が遂行されていく残虐な過程が極めて冷静に描かれていることだろう。

 

実行部隊は疑う事を知らない純朴な若者で、完全に心がコントロールされている。

この無垢な若者を操るボスは多国籍の言語を操り、携帯電話とコンピューターを使いホテル側を翻弄。人質のパスポートを携帯カメラで撮らせ送信、拘束者の身分を明らかにし、生け捕りが死刑か指示を出す能力の高さには驚かされる。

 

コマンドの携帯をスイッチオンにさせたまま殺戮させ、現場銃弾音をTV局に流し、世界に知らしめるという手の込んだマスコミ利用までやっている。手馴れたものだ。

 

この作品は携帯が如何にテロ集団にとって優れた武器になるかを示した好例にもなっているが(他作でも多くあり新鮮とは言えないが)本作は事の他 威力を発揮して見事に撮られている。

 

今後のテロ対策として、ホテルも電波offに切り替える(劇場などで行われている)設備も必要かも知れない。尤もこれは諸刃の剣で、中の状況が分から無くなるので難しくもある。

本作では客が外部に隠れ場所を携帯電話したことがTVに漏れ、放映されてコマンドがそこに殺到するという最悪の結果となったので、マスコミの協力も必須。

 

本作はターバンを巻いたシーク教徒の従業員と料理長がホテル側のメインC、子持ちの一家が客側のメインC、貧しい少年と青年がテロ実行犯側のメインC として話は進展するがロシアの秘密工作員など枝葉も多く、群衆劇風になっている為、ラストの盛り上がりが多少あっけなく感じられたのは残念。

 

自己犠牲を厭わない 家族愛、職業愛、隣人愛 をベースにして感動的な作品ではあるが、

何故か興行的で安っぽく感じたのは私だけではないと思う。

 

それが、赤ん坊を使った常套手段なのか、何処にもあるラストシーンなのか、・・・、インド映画という偏見もあるのかもしれない。 

 

No.12

荒野のストレンジャー

    1972/101分

 

クリント・イーストウッド 監督(2作目)・主演

 

原題はThe plains dorifter だから「流れ者」だが邦題では

「よそ者」となっている。この方がピッタリの内容ではないか。

 

最後まで、彼が守ってやった村の住民に感謝もされず「よそ者」のまま去っていくからこの方が良い。

 

黒澤の7人の侍と同じ設定で、悪漢に苦しめられている村人をガンマンが成敗する作品なのだが、ここでは村全体が国有鉱脈を無断で採掘し、その事を外部に漏れそうになると、暴く人物を抹殺してしまうという共同犯罪集団でもあるということが、村人が善人の黒澤とは違う設定となっているので複雑。

 

悪漢は金塊を盗もうとしているのでストレンジャーが村人に登用される訳だが、この作品が謎だと言われる第一の理由がそこにある。要するに「善」と「悪」がはっきりしていない。

 

もうひとつは彼が女好きという事だろう。商売女も人妻も見境が無い、だから正義のヒーローではなく、やや汚れたヒーローとなっている。

見事なガンさばきシーンだが、そのダーティーさ故に「シェーン」と同じ終わり方を期待していた観客には肩透かしか。

 

C・イーストウッドの作品はその後も、誰でもやるような常識的な展開を避けて、意外性に重きを置いている。本作の玩具のようなチャチな赤く染めた建物群など、あまり意味が無いと思うが、意外性はあり確かに印象に残る。

 

前保安官の虐殺場面が2度ほど、ストレンジャーの夢に現れるが、彼の怨念が乗り移ったということかも知れないし、いやそうじゃなくて死人が生き返って仕返しをしたのかもしれない、

と言う事を暗示させミステリアスな映画となる。

 

謎の人物像、これが本作の特徴。

 

No.11

ウエスタン

     米・伊 1968/141

 

   セルデュオ・レオーネ 監督

 

H・フォンダ、C・ブロンソン、C・カルディナーレ

ジェイソン・ロバーツ

 

原題を once upon a time in the west というように、情感溢れる異色の西部劇。

何が情感だというと、何と言ってもエンニオ・モリコーネの音楽。

名前を知ら無くても、ニューシネマ・パラダイス、続夕日のガンマン等の映画主題歌は世界的に大ヒットしたから、聞けばすぐ分かるだろう。

特に「ミッション」のテーマである「ガブリエルのオーボエ」は海外の合唱団でよく謳われている名曲だから、是非一度聞いてほしい。

 

セルデュオ・レオーネはマカロニ・ウエスタンの祖として、荒野の用心棒などのドル箱3部作に続き、ワンス・アポンナタイム3部作で ハリウッドでも時代の寵児となった。

 

基本が娯楽大作だから、不当に評価されたのも事実で、それ故に最近見直されている。

タランティーノは「夕陽のギャング達」を全映画ベスト1に推しているほどだ。

 

本作は展開が遅いとか、長すぎるとの意見も多いが、良く見ると実に細部に拘った見事な作品だと感心する。無言の続くファースト・シーンなど特異で、釘付けにされる。全体の流れからそれ程の意味はないのだが、ワンカット、ワンカットに執拗に拘っていることが分かる。

 

思い出をなぞる様な、ゆっくりしたテンポ、カメラワークの凄さなど、レオーネのロマンティシズムは同じ西部劇でもフォードとは全く違う世界。

 

シナリオ的にはシャイアンが効いている。強盗だが根っからの悪人ではない。これがフォンダ演じる冷徹悪人と対比され観る者の救いとなっている。

 

目は口ほどに物を言う とか言う。クラウディア・カルディナーレやフォンダ、ブロンソンの目が画面いっぱいにクローズアップされ、セリフの少ない芝居を十分成り立たせている。

 

レオーネは黒澤の用心棒のリメークで地位を得た。

ただマネするだけではない事を立証した見事な作品群とおもう。

No.10

僕のワンダフル・ジャーニー

         米 2019/109分

 

ゲイル・マンキューソ 監督

ラッセ・ハルストレム 製作

 

祖父/デニス・クエイド、祖母/マージ・ヘルケンバーガー

CJ/キャスリンプレスコット、母/ベティ・ギルビン

恋人/ヘンリー・ラウ

 

余った時間に映画館飛び込んだ、犬好きなので本作にしたが、どうも1回観たような作品だった。調べてみたら、製作者が監督した「僕のワンダフル・ライフ」の続編。

全く同じテーマで新鮮味に欠けイマイチ。

ただし、犬好きなら、涙必至。

No.9

翔んで埼玉

 2018/106分

 

竹内英暉 監督

摩夜峰央 原作(コミック)

 

二階堂ふみ、GACKT、伊勢谷友介、ブラザートム、麻生久美子

京本政樹

 

 

ヒット作「パタリロ」で有名な漫画家原作の実写映画。

東京に対する劣等感、県民同士の足の引っ張り合い、など地方出身者が持つマイナーな意識を自虐的にオーバーに描いて、笑いをとった話題作。

地元でヒットしたと言うから、県民のレベルも高いとみる。

 

本音で言えば、めちゃくちゃ面白いが何も残らない?

多分作る方もレコードで言えばB面のつもりが、思わぬヒットしただけだろう。

群馬が文化果つる田舎で、熊谷も最早群馬という下りには、明治時代には県庁所在地だった歴史を無視しているし、名物が草加煎餅だけで、シラコバト(県の鳥)の刻印が押された煎餅を、「踏み絵」として使う場面も、秩父や県北の人は草加煎餅なんて知ら無いと言って、違和感を持つだろう。要するにハチャメチャ偏見の連続。

 

今時、埼玉県民だ、千葉県民だと言って、劣等感を持つ人は皆無だと思うし、都民も都民である優越感を持っている人も皆無な時代に、何故こんな映画がヒットするのだろうか、という事をここでは考えてみたい。

 

昔は日本は農業国家だった。(江戸時代は国民の90%、昭和5年47%)

稲作は水の管理や共同作業など村全体の秩序の下に、「村意識」が形成されてきたと思う。

 

それが「個より全体」という没個性意識に繋がり、国家を支えてきたことは疑いがなかろう。

それが、明治以降産業国家に変身し、村意識が会社意識に変貌し、奇跡の復活を果たしたことは村社会の持つ有用性の賜物だったのだろう。

 

しかし、会社に通う人はバラバラな処に住んでいるので、住居地では村社会意識を持つことが出来ない。人間的な繋がりを必要とする基盤が無いから、「隣はなにをする人ぞ」に代表されるタコツボ型居住者となってしまった。

 

それでも、主婦は子供の学校関係上の近所付き合いなどで、辛うじて地域社会との接点があるものの、男性は定年後全く孤独になり精神的苦痛を味わい、そこで初めて地域社会との接点を求める事になるが、女性より順応性に劣る男性は上手くいかないことが多い。

 

それでも、サッカー・ワールドカップとなると、老若男女を問わず、見知らぬ人と「ニッポン、チャチャチャ」と肩を組んでパブリック・ビューの前で応援するのと同じ心理で、何かの機会さえあれば皆と仲良しになりたいという潜在的な欲望が、強くはないが確かに存在している。

 

それが、昔の村意識の残滓であり、それが郷土愛指向となり、自己の存在確認(他者との関係でしか得られない)にも繋がっている。

これが本作ヒットの根幹ではないかと思う。

 

今住んでいる所、そこは死に場所に他ならず、他所をもって代えられない無二のものであるから、誇りを持ちたいのは当然である。

 

ただ、下手をすると自身と他者を分断する国家的ナショナリズムに繋がりかねないので、注意は必要だが。

 

*** 

何時もは笑っているブラザートムが今回は笑わない、なかなかの演技。

No.8

サボタージュ

 1936/76分 英

 

アルフレッド・ヒッチコック 監督

 

オスカー・ホモルカ(夫) シルヴィア・シドニー (妻)

 

監督初期の英国時代の作品。本邦未公開作品。

テロリストの夫と無関係の妻とその弟、さらに覆面刑事のからみで、ピカデリー・サーカスでの爆薬破裂事件が展開する。

 

原作者のJ・コンラッドは文学史上後世に多大な影響を与えた人物で、地獄の黙示録など暗い作品が多いとの事だが、本作も血も涙もない少年の無駄死にや、その直後姉(妻)が漫画映画を観て笑う場面があるとか、正義感で夫を殺害した妻を刑事が延命させたり、かなり倒錯した価値観に誰しも違和感を感じるおかしな作品となっている。

 

もっともこれはヒッチコックの責任ではない。画面展開のスピードや混雑時のバス内の犬の描写など、ハラハラドキドキ感は既に備えているのはさすがだ。

当時のロンドン市中の様子も今となっては記録映画としての価値もあり、監督の歴史を知る上で無駄ではない鑑賞ではある。

 

No.7

山懐に抱かれて

 2019/103分

 

遠藤 隆 監督

 

出演 岩手県下閉伊郡田野山 吉崎家一同

ナレーション 室井滋

 

TV岩手 出身の遠藤氏による奇跡のドキュメンタリー映画。

何が奇跡かというと、24年間の連続記録という点と、毎日カメラを回してないとめぐり逢えない、突発的なスズメバチ襲撃事件や母牛突然死事件なども収められているからだ。

又、製作者が余程日頃から身内同然に接触していたのだろう、家族はカメラを全く意識していないで、本気で親子喧嘩などしている。

 

「山地酪農」(やまち とフリガナされているが、一般的には さんち と読まれている)

とは 山を切り開き牧草を植えて牛を放牧させて牛乳などを生産する酪農の事。

 

牛は自然の草と水だけで育てられる。搾乳の時だけ牛舎に入るが、雪や雨でも外で暮らすストレスの無い野生自然酪農である。

 

普通スーパー等で売られている牛乳は、給餌率を良くするため牛を牛舎に入れ運動しないようにして、濃厚な配合飼料を与えて乳を出させて製品にしたものが殆ど。経済性から言えばこれが有利。ところがこれでさえ、この配合飼料は海外品である為、昨今の高騰で採算が悪化して、酪農家は次々と廃業を余儀なくされ、今はピーク時の1/3になってしまっている。

これからどうなっていくのか?

 

山地酪農は我が国土の7割を占める豊富な山地を利用するから、100%国産自給でき、化学肥料も使わないから、安心な食品を生産できる。

これは理想の酪農としてある学者が提唱したものである。

 

これに挑戦し続けているのが田野畑の吉崎さんである。

やり始めると年間100万の赤字、20年で2000万、現在では6000万の赤字で銀行融資もストップしている。要するに、残念ながら理念先行で採算が採れ無い方法なのだ。今インターネットで「山地酪農牛乳」は入手出来るが1L 700円である。一般的な牛乳は200円前後だから、毎日飲むには高い。

 

この方法に賛同した酪農家は過去全国に居たが、次々に止めて現在は4軒だけだそうだ。

 

上映館ポレポレ東中野の1fでは期間限定でこの牛乳を飲ませてもらえる。

ホット 1杯で500円(入場者には400円)。飲んで見ると、気のせいか緑の香りがして自然を感じるが、乳脂肪分が少ない感じがし、さっぱり味。

 

ブリやシャケ、鶏肉など養殖物と天然物を比べると脂肪分の関係で、余程舌のこえた人を除けば、養殖物の方が美味しいと感じてしまう のと同じで、自然牛乳が体に良いと分っていても、万人が一口飲んだだけで「違う」と感じるかどうかは微妙な気がした。

 

自然農法と石油農法、考えてみれば牛乳だけで無い。過去映画で紹介された「奇跡のリンゴ」は農薬漬け栽培を止めて自然育成にチャレンジしていた。野菜や穀類など自然農法に拘っている農家はかなりあるが、消費者が振り向いてくれるとは限らず、どれも採算がとれず苦労している。

 

品質が良ければ売れるとは限ら無い。その良さを理解してもらう努力と販売方法を考えても、結局は、裕福な家庭でなければ買えない贅沢品という狭いマーケット、ということであろう。

しかし、自給や健康の観点から無くしてはいけない農法だから、何らかの財政的支援を考えないと絶滅の危険がある。

 

先の見えない手探り状態の日本農業、外国産品との競争で疲弊していく・・・日本農業の未来はどうなるのか・・。

食べ物は人間にとって最も大事なもので、このままでは国民が犠牲になるのに、有効な手立てがないままに、生産者に委ねている。

だから、志のある農家が疲労と貧困に喘いでいるという現実。

 

吉崎さんは言う、お金ではない、正しいと信じた道を進むだけ、それが人生。

物欲を捨てた禅坊主みたいだ、こんな人はまず居ない。

 

***

話は変わるが、ところがである、吉崎さんには子供が7人おり、これが皆助け合って本当にいい子に育っているのだ。

父は言う、デパートや遊園地に連れて行くお金がない、子供に与えられるのは愛情だけだ。

だから、真剣に子供に向き合う。

 

極貧が人間を育てると言われるが、それだけでは無いだろう、食事の前に全員で合唱する 「おじいさん おばあさん ありがとう お父さん お母さん ありがとう 一郎、太郎、・・・ ・・・・、牛さん ありがとう いただきます 召し上がれ」

 

自然に生かされていることへの感謝なくして、他人への感謝なくして、極貧は乗り越えられない。現代人が忘れかけている謙虚で素直な家族の姿に 感動を覚える。

 

農業問題は結局、大半が消費者問題に帰ってくる気がするので、お金に余裕のある家庭の方は是非自然産品を買ってあげてほしいし、そうでない人も理解を深め、日本の農業のことを考えてみたらどうだろう。そんな提案を感じた映画だった。

 

尚、ナレーションを務めている室井滋さんは「山地酪農牛乳」を以前から愛用しているとの事だった。

 

 

No.6

ボヘミアン・ラプソディ

  2018/135分 米・英

 

ブライアン・シンガー 監督 (X’メン シリーズ)

ジョン・オットマン 音楽

 

ラミ・マレック(フレディ・マーキュリー 主演オスカー賞)、ジョー・マッゼロ(ジョー)、ベン・ハーディー(ロジャー)、グウイリム・リー(ブライアン)、ルーシー・ポーイントレ(メアリー)

 

 

We are the champions(1977 フレディ・マーキュリー),We will rock you(1977 ブライアン・メイ)などのヒット曲を飛ばしたロンドン発のロック・グループ 「QUEEN」のリード・ヴォーカル フレディ・マーキュリーの伝記映画。

 

私はあまりロックは聞かないので、CDは少ない。QUEENは「sheer heart attack」の1枚だけである。素人に近い私でも上記2曲は知っているので、当時余程流行ったのだろう。

 

調べてみると、1970年に結成されて、この映画のラスト21分の感動のLIVE ADEが1985年だから結構長く活躍している。

 

大昔のグループだが、その歌は未だヴィヴィッドで、ロマンティック。しかも分かりやすいので年配者には遅れてきた青春という感じで、現在聞いても違和感が無い。CDも重版されるだろう。

 

映画としての見どころは何と言っても、ラスト21分のlive シーン。ロンドンのウエンブリー サッカー場に集まった観客15万人が、いや裏方さんまで含めた参加者全員が手を振り、足を鳴らして、合唱する嵐のような興奮が、世界中継映像をはさんで見事に演出されている。

 

観客とステージが一体となり、観客同士が手を繋いで叫んでいる情景は、若者が既成社会に対して持っているモヤモヤ感を連帯することで自己確認し、陶酔しているように見える。

寂しく悩める若者がイキイキしている。

 

この live シーンを除けば、テーマが分散して、さらっと流している感がややした。

当時のホモセクシャルに対する世間の無理解はもっと酷いものだったろうし、当時不治の病と言われたエイズに感染した時の絶望はもっと深かったと思われるからだ。

 さらに、ゲイと結婚したメアリーの心情も表面的すぎないか、私にはこのつらさが伝わら無かった。又、音楽家にアルコールと麻薬は付き物とはいえ、彼は心底自己嫌悪で苦しんだと思うが・・。

 

まあいろいろケチをつけてみたが、長い映画を最後まで退屈せずに見れた事は確かだし、ラストの盛り上がりで、すべてが帳消しになったことも事実。やはり並みの映画では無いという事に異論はない。軽い気持ちで音楽を楽しんで見ると良い。

 

 

No.5

グリーンブック

 2018/130分 米

 

ピーター・ファレリー 監督

 

ヴィゴ・モーテンセン(トニー)、マリー・シャラ・アリ

(シャーリー)、リンダ・カーデリーニ(ドロレス)

 

ドン・シャーリー/1927~2013 実在した天才ピアニスト

をモデルとしている。演じたアリはアカデミーで助演男優賞を得、監督も作品賞をとった話題作。

 

*アメリカ南部はどんな所だろう*

私は映画か小説か,はて又音楽を通じてしか知らない。T・ウイリアムズの「欲望という名の列車」「熱いトタン屋根の猫」、M・ミッチェルの「風と共に去りぬ」。ジョージアのR・チャールズ、メンフィスのプレスリーやBB・キング。ダラスでのケネディー、メンフィスでのキング牧師の暗殺など数多くの情報が頭の中に未整理のまま投げ込まれて、一種独特な世界を形創っている。

怖いが一度覗いてみたい、そんな特殊な魅力を持った地域である。

 

 差別、危険地区 というフィルターを通してしかその場所を捉えらがちだが、よくよく考えてみると、気候温暖で石油などの天然資源もあり、アメリカで一番暮らしやすい土地柄と考えられる。農業国家が工業国家に飲み込まれる形で「風」(南北戦争)は北に吹いたが、変わらないアメリカ、変えられないアメリカの源泉として、米国工業が衰退した今日、その存在感が徐々に増しているのではないか、とも考えられるが如何。

 

ディープ・サウスと呼ばれているのは、サウス・キャロナイナ、ジョージア、アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナの5州である。これにテキサスとフロリダを加えた連合国7国を指す場合もある。

 

この地域は過去綿花の輸出で生きてきた。その主役は奴隷である。だから今日でも黒人比率が高い。南アもそうだが、黒人の数が多いと白人は身を守る為に武装し、徹底的に差別し貧困のままにしておく必要性がある。これだけ銃による犠牲者が全米に増えても政府は規制出来ないし、公民権運動後も差別は基本的には変わら無いらしい。

敬虔なクリスチャンが多くバイブル・ベルトと呼ばれているように、伝統を守ることに熱心で、時に法律無視がまかり通る。政治的には保守の岩盤地域(共和党)である。

 

* 映画の話*

この映画は1960年代初頭のディープ・サウスをシャーリーとその用心棒トニー(イタリア移民)が演奏旅行で回る、ロード・ムーヴィーである。

 

 裕福な南部白人層にはsnobが多いので、例え黒人ピアニストでも二つの名誉博士号を持ち、著名な指揮者と演奏会を重ねていた世界的な天才の音楽会には顔を出しておきたいとニーズがあるので、この演奏旅行には多くの聴衆が集まった。ただピアノを離れるとただの「ニガー」で演奏会場ホテルではトイレも使わして貰えず、レストランで食事も出来ない惨めな扱いをされる。こんな差別を受けても「暴力を振るわず、完全無欠な紳士であること」でしか乗り越えられない、という信念を持つシャーリーと、反対にすぐ暴力に訴え、全く下品で粗野なトニー(ブロンクス出身)が衝突しながらも、お互いを認めあっていく過程が、丹念に描かれている。

 

凛としたシャーリーの生き方も魅力的だが、トニーの単細胞ぶりも可愛く、この組み合わせの妙が見どころ。

 

南部は黒人旅行者にとって制約が多くホワイト・オンリーの場所に間違って足を踏み入れたりすると、命を落とす危険が常にある。心をやっと通じ合えるようになった二人が、相手の為に自己犠牲を選ぶ筋書も予想され、見る者の胸をざわつかせながら映画は進行するが・・・。

 

2週間程度で、黒人と白人が心底分り合えるのは少し甘いという意見もあろうが、ラストシーンはやはりこれでなければいけない。だからこそ皆この作品に涙し、世界的な支持を受ける、これが映画たる所以に違いない。

 

「他人を肌の色や着ているもので判断してはいけない」正論である。

アメリカ南部では差別される日本人も、日本国内では黒人を差別している。

「理念と感情は別」がまかり通る。南部の白人と変わら無いエゴにどう立ち向かうのか、他山の石としたい。

 

グリーン・ブックとは南部を旅行する黒人の為のガイド・ブックで、泊まれるホテルや入れるレストラン、注意点などが書いてあるとのことである。

 

孤独感溢れるアリの演技、リンダの可愛さ、を追筆しておこう。

 

更に広大なアメリカ大陸を今はクラシック・カーとなった大型セダンでぶっ飛ばしたり、大食い競争などチマチマしないで単純豪快な風土がこれぞアメリカという雰囲気を醸している。

 

No.4

横道世之介

2012/160分 日活

 

沖田 修一 監督 「南極料理人」「キツツキと雨」

吉田 修一 原作  「悪人」

 

高良健吾、吉高由里子、池松壮亮、綾野剛

 

コメディーのジャンルに入るのだろうが、後半は人生の儚さを語りホロリとさせて、余韻を残す。

 

この作品の価値は「世之介」という、正直で飾ら無い、甲類焼酎みたいにストレートな馬鹿面白い青年を描き切った事であろう。現実には居ないかもと思わせる誰でも好きになるこのパーソナリティーが何といっても魅力である。

 

更に、こんな好青年を育てた長崎の漁村に住む両親(余貴美子、キタロウ)も好感が持て、この親にしてこの子供ありの観があった。

 

こう言うパーソナリティを作り上げたのは原作者の力に他なら無いが、結論を先に出した後、過去と現時点を交差させ、過ぎゆく時間の尊さを感じさせながら進行する監督の手腕はかなり計算されている。さらに各挿話がさりげなく生かされており、長い割には引き締まった作品になっている。

ただヒロインの家族関係と謎の女性との関係など幾つか未整理があったのは残念だが。

 

吉高由里子のお嬢様言葉にやや違和感を感じたのは私だけかも知れない、彼女は深窓の令嬢というイメージを持っていなかったから。自立してからの彼女ははまっていたが・・。

 

久しぶりに退屈しない日本映画だった。

no.3

偽りなき者

  2012/115分 デンマーク

 

トマス・ヴィンター・ベア 監督

マッツ・ミケルセン(ルーカス)

トマス・ポーラーセン(テオ)

アニカ・ヴィタコブ(クララ)

ラセ・フォーゲルストラム(マルクス)

 

この映画で語られている事は、今日世界の何処ででも起こっている「世間」が犯人になる怖さを描いているので、世間に生きる我々にとって、常に念頭に置きたい事柄。

(あらすじ)幼稚園の保育士さん(男)は優しく、子供にとっても人気者で非の打ち所が無い人物だった。ところがある幼児がこの先生を好きになって、ハートマークの贈り物をしたり、抱きついて唇にキスをしたりしたので、たしなめたところ、逆恨みで「先生の性器は棒のようなものだった」というトンデモナイ嘘話を園長先生にした。これは実のお兄ちゃとその仲間がポルノ写真を見て口にしていた言葉をそのまま喋ったのだったが、子供は嘘を言わない、と信じている大人達が真に受けて、警察に通報され、「変質者」として地域社会全体によるリンチへと発展する。

所謂、冤罪なのだが、社会による烙印は無実を有罪に変える。

 

こんな話は至る所にある。痴漢の冤罪、無実が証明され無ければ有罪。某国南部の黒人差別によるでっち上げ、日本でも関東大地震の時、半島出身者が民衆に殺された。

 

世間は確証がないのに犯人にしてしまうという現実に、どう向き合えば良いのか。皆が言っているから自分も従うという態度がそうさせるのだが、反論すると袋たたきに会ううこともあるだろうから、繰返し起こる。

 

戦時中は町内隣組は密告組織とも言われている。確証もないまま、拷問で死んだ人もいる。

個人は尊厳を持って自立しなければいけない。付和雷同はダメ、「世間」こそ一番怖い存在だということを,マスコミやネットの力が大きい今日、ことさら意識する必要がある。

 

考えれば、TVや新聞で流される話は確証の無いものばかりで、真実とは違っていてもそれが通説となる。被害者になって知る過酷な世間。

 

この子供は、線の上しか歩かなかったり、誇大妄想気味のやや病的な点が伏線になっているが

、子役がそれにぴったりな印象なので、キャスティングは見事である。

 

No.2

運び屋

 2018/116分 米

 

クリント・イーストウッド 監督

 

主演アール 監督

ブラッドリー・クーパー (捜査官コリン)

ダイアン・ウイースト(妻メアリー)

アリソン・イーストウッド(娘)

 

 

 

老いをテーマにした映画は最近特に増えたように思う。

音楽を通じてハッピーになるようなものが目につくが、

私は綺麗ごとの無い「ラッキー」(荻虫映画2018 No.15)が一番好きだ。

 

ラッキーは砂漠に毅然と咲く孤高の花だが、アールは外づらはいいが、家庭を顧みない身勝手な男という点において、何処にでもいる人間臭い主人公である。

人間臭すぎるから、麻薬運搬人までやるのだろうが、これは羽目の外し過ぎ、だから、とことん感情移入出来ない主人公像とはなっている。

実話なので仕方無いが、脚本として最初から無理があろう。

 

本作がその評価を高めているのは、何といっても音楽(アルトーロ・サンドヴァル)。

メキシコとの国境沿いにあるエルパソからシカゴのちょい南のイリノイまでの長距離をポンコツ FORD pick up で移動する。荒野の中の一本道を進む老ドライバーが口ずさむカントリーの数々、これが明るく単純で雰囲気を大いに高めている。

 

中でもエンドロールで流れるED曲が絶品。これでこの作品は一級品となった。

以下コピーを添付する。

 

◎「Don’t let the old man in」歌詞和訳
Written and performed by Toby Keith Courtesy of Show Dog Nashville

老いを迎え入れるな
もう少し生きたいから
老いに身をゆだねるな
ドアをノックされても
ずっと分かっていた
いつか終わりが来ると
立ち上がって外に出よう

老いを迎え入れるな
数え切れぬ歳月を生きて
疲れきって衰えたこの体
年齢などどうでもいい
生まれた日を知らないのなら
妻に愛をささげよう
友人たちのそばにいよう
日暮れにはワインを乾杯しよう

老いを迎え入れるな
数え切れぬ歳月を生きて
疲れきって衰えたこの体
年齢などどうでもいい
生まれた日を知らないのなら
老いが馬でやって来て
冷たい風を感じたなら
窓から見て微笑みかけよう

老いを迎え入れるな
窓から見て微笑みかけよう
まだ老いを迎え入れるな

 

ミュートの効いたトランペットのかすれた音色が涙を誘う。

そう、88歳イーストウッドの老いに向き合う心を歌詞が見事に代弁しているからだ。

 

肉体は日々衰えても、精神はこのようにありたい。

そう願っている彼に敬意を表し、かく私もそうありたいと思った作品だった。

 

ps:ラッキーはスタントン91歳で遺作となった。

イーストウッドはもう監督は無理としても、もう一作是非主演して欲しい。

本作の所々に遺作の匂いがするので、心配である。

 

老いた父の最後の願いぐらい聞いてあげたいと思ったのであろう、疎遠であった実の娘が娘として出演している。

 

 

No.1

シェイプ オブ ウォーター

 2017/124 米

 

ギレルモ・デル・トロ 監督、脚本

サリー・ホーキンス(イライザ)

マイケル・シャノン(ストリックランド悪漢)

リチャード・ジェンキンス(シャイルズ同居人)

 

2017アカデミー作品賞他3賞 ヴェネチュア金獅子

LA、GG 受賞作

 

 

言葉の話せない女性とアマゾンで発見された未確認生物の奇跡の恋物語である。

まず気持ち悪い怪物に驚かされ、さらにこれに恋をするという設定に度肝を抜かれ、さらにさらに、最後まで追われる身のサスペンス仕立てにイライラしっぱなしで、決してハッピーな気持ちで見られないので、体力も必要な特別な映画である。

 

でも単に奇を衒っただけの作品ではないのだろう。

一般的には、他人が認めない愛、例えば不倫とか年齢差のある愛とか犯罪者との愛とか、どんな世間的軋轢があろうとも、本人同士が愛に準じるケースはある意味ありふれた題材であるから、そんな意味では本作も珍しい作品ではないと言える。

 

しかし、他人に認められない対象として未確認生物みたいな怪物を持ってくるのは何故だろう

か、美女と野獣の例もあるがあれは最後は魔法が解けて人間に戻るから、常識路線回帰で安心する。

 

これは全くの穿った見方だが、作者は愛をテーマにしたのではなく、芸術論を語っているのではないか、と言えなくもないがどうだろう。

 

即ち、時代に先んじて突然現れた抽象絵画などは当初は「怪物」として嫌がらせを受けた。その時代の権威は抹殺しようと追い詰めたこれがストリックランドに表象されている。

正しいもの、本物でも、追い詰められていくことがあるのだ。

 

芸術家がいつも認められるとは限らない、サド侯爵 みたいに裁判にかけられることもある。

 

要するに世間に妥協しないで、自我を押し通すと、傷を受ける。

でも怪物は甦る、そして何人かの味方もいることも救いだ。

 

そんな芸術家に対する応援歌と理解したいが。

 

少なくとも本作は、過去に例がないオリジナリティーがあることだけは確かだから。