☆5.0

☆4.0

1939/ゲームの規則/J・ルノワール

1958/隠し砦の3悪人/黒澤/娯楽1963/天国と地獄/黒澤/富裕と貧困、誘拐

1966/わが命つきるとも/英 No.9

1969/人斬り/勝新太郎 No.8

1988/ミッドナイト・ラン/デニーロ

1999/ジャンヌダルク/M・ジョヴォヴィッチ

1995/耳をすませば/ジブリ No.3

2009/タレンタイム No.13

2010/トスカーナの贋作 No.5

2013/人間の値打ち/伊仏/ひき逃げ事件

2013/あの日見た花の名前を・・・/No.14

2015/エル・クラン/アルゼ/身代金誘拐家族

2016/しゃぼん玉 No.7

2016/歓びのトスカーナ No.11

2016/僕のワンダフル・ライフ No.15

2016/ドリーム No.16 

2016/人生フルーツ/ドキュメ/スローフード

☆4.5

1985/銀河鉄道の夜/アニメ No.2

2016/沈黙/スコセッシ No.6

☆3.5

1976/ファミリー・プロット/ヒッチコック

1985/乱/黒澤明

1991/ケープ・フィアー/デニーロ

1998/ブルース・ブラザース2000

1985/台北ストーリー No.12

2001/みんなのいえ/三谷幸喜

2011/星守る犬/西田敏行 No.4

2014/ピエロがお前を笑う/独 ハッカー

2015/トッド・ソロンズの子犬物語No.1

2016/海よりもまだ深く/是枝裕和 No.10 

2016/kubo 二本の弦の秘密 No.17

2016/ラ ラ ランド

 

 

☆3.0

2013/アルマゲドン/加


今年はたった33本、旧作名画は見尽くしたか?そうではない体力、気力、好奇心の減退と思われる。100映画の看板を下ろし来年からtekicyu映画とする。12.31

No.17

kubo/クボ 二本の弦の秘密

                   2016/103分/米

                   T・joy seibu大泉

トラヴィス・ナイト 監督

米国声優は一流を使っている。

 

ストップモーションアニメというらしく、人形劇とアニメを合体させた凝った作り方をしている(LAIKA社)。

 

米国人監督の米国映画だが、舞台は江戸時代の日本。

外人が好きな日本のイメージがふんだんに盛り込まれているから、米国人向けに作られたのだろう。

まずファースト・シーンの嵐は「北斎の神奈川沖」を下敷きとし、エンドロールの背景はもろに広重や美人絵ををそのまんま使っている。

 

仏像、兜、刀、鎧、武士、神社の巨木、三味線、折り紙、盆踊り、精霊流し、富士山・・・。

どれも純日本風な絵で、ありがちな中国、韓国物との混同がないのは珍しい。

巨大なクワガタムシ製作などの手のかかる仕事と同じに、日本人に時代考証や衣装、建物など細かい点まで意見を求めたと思われる。労作である。

 

気になった点①:2017のMLBワールド・シリーズでアストロズのグリエル選手がダルビッシュ投手を指さし、手で目を引っ張ったことが人種差別問題視された。アジア人は目が細くつり上がっているというのが向こうの通説らしい。キューバ人からも蔑視されるほど、我々は目が細くつり上がっているのだろうか、少なくとも全員がそうであるというのは嘘である。 

極端な細目切れ長の目は浮世絵の影響かも知れないが、この映画では登場人物がすべて「キツネ目」である。

これへの異常な拘りは何処からくるのだろう。異国情緒を演出したでは済まされまい、どこか差別の匂いがするが。

 

②三つの武器が揃っても悪に勝てないのは約束違反ではないか。死者から生者へ、そして子孫へ「人は決して死なない」という仏教的人生観を説明するのなら、pcゲームみたいな武器集めで観客をひっぱらないで欲しい。

 

二本の弦は父と母とのことだ。死んでも君を守ってくれる。

今日は仏壇にお線香を上げよう、おっとうちには仏壇が無かった、実家に行かねば、でも遠いしな~、取りあえず西に向かって手を合わせることにしよう。

 

 

No.16

ドリーム

                2016/127分 米

                みゆき座 日比谷

 

セオドア・メルフィ 監督

タラジ・p・ヘンソン(キャサリン 数学者)

オクタヴィア・スペンサー(ドロシー 電算室長)

ジャネール・モネイ(メアリー 工学技術者)

 

1960年代初頭のNASAが舞台。

ソ連に後れを取った米国が威信をかけて宇宙開発に邁進した時代。

当時はNASA内でも人種差別がひどく、トイレは片道800m先のカラー専用しか使えない。

しかもこの3人の黒人は女性だから、二重のハンディを負っている。

それでも並外れた能力で次第に壁を乗り越えて、夢を実現させたという実話を映画化した。

 

痛快で感動的な作品に仕上がっているが、黒人でも極めて稀な天才故の話で、一般の従業員まで救われたかは疑問故あまり喜べないが。

 

でも、白人より能力が優れている黒人の個々の例は白人からすれば面白く無いが、結果が正直に出るので、認めざるを得ない。このような事例を積み重ねてこそ偏見が確実に薄くなって行くのかもしれない。

 

白人の優越感、黒人の劣等感の根源を考えさせられる佳作。

余り深刻な迫り方ではなく、コメディ・タッチの作風も好感。

音楽も軽快で楽しい映画。

ケヴィン・コスナーが太り気味で老けたのは寂しかったが。

 

No.15

僕のワンダフル・ライフ

(A dog's purpose)

           2016/100分 米

           東宝シネマ 新宿

 

ラッセ・ハルストレム 監督(スエーデン人)

J・K アパ(10代のイーサン)、デニス・フェイド(大人のイーサン)、ブリット・ロバートソン(10代のハンナ)、

ペギー・リプトン(大人のハンナ)、ジョン・オーティス

(父)

 

 

私の好きな映画のうち、かなり上位に位置する「ギルバート・グレイプ」「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」の監督作である。直近では「Hachi・約束の犬」がヒットした。

 

相当な犬好きに違いない。

だが可愛いだけの単純な動物映画では無い。何処か寂しく、悲しく、真水の如く澄んでいる。

次々に生まれて次々に消えて行く命の儚さ、その短い命の意味を問い続けている。

これは犬の立場からの犬生論映画だが、人間も生まれてきた意味を考えさせられる。

 

本作には4匹の犬が登場する。ゴールデン・レトリバー、シェパード、コーギー、雑種?

4つの話をオムニバス調に進めるが、これを輪廻転生で結び、子供の時飼っていたベイリーが

4代目の犬となって記憶を持ったまま登場してイーサンを驚かせる。

 

この犬は人を幸せにするため為に生まれたと意味付けている。果たして人は他人の為に何が出来るのだろう・・・。

 

犬は狼から、人は猿から 進化した。どちらも類的生物である。

仲間から外れて幸福になれないという・・・・。

 

 

 

No.14

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない

 2013/99分 dvd

 

長井龍雪 監督

声優:入野自由(じんたん)、本間芽衣子(めんま)、安城鳴子(あなる)、松雪集(ゆきあつ)

 

深夜TVの連ドラを劇場版にした総集編アニメ。

舞台は秩父、山中に仲良し子供達6人の秘密基地がある。「めんま」と言う天使のような女の子が或る日、崖から落ちて死んだ。残された5人はそれぞれ死の遠因を感じて自分を責めたり、優しさに応えてやれなかったことを悔やんだりして、深い心の傷を負った。時は過ぎ中学生~高校生になったころ「めんま」は幽霊になって「じんたん」のもとに現れる。・・・・。

 

「めんま」が余りかわゆく描けて無いとか、お涙頂戴が過ぎるとかいろいろあるけど、忘れてしまった幼心や幼馴染の遠い思いでが懐かしく思い起こされて、ホロッとさせられること必至。濁りの無い綺麗な心は映画だけかも知れないが、素直にさせられた。

 

No.13

タレンタイム

  2009/115分 マレーシア

  ギンレイホール

 

 ヤスミン・アフマド 監督

パメラ・チョン(ムルー)、m/j/キショール(マヘシュ)

 

珍しいマレーシア映画。

高校生の音楽コンクール(タレンタイム)がテーマだが、彼らの歌や演奏がとても良く、ストレートに心に響く佳作となっている。

 

マレーシアは多民族国家で、中国系、インド系、ヨーロッパ系、マレー系と雑多。宗教もキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教と多様だ。

異民族、異教間の恋愛、結婚となると拘る人もいるらようだが、それでもまずは問題なく暮らしているらしい。

 

何の知識もなくこの作品を見ると、いろいろな人種の俳優が出てきて、音楽も中南米のリズムであったりするから、何処の国の映画かと迷う人が多いだろう。無国籍映画と言って良い、その意味では日本人には作れない異次元映画。

 それでいて日本での評判がいいのは、既に我々が失ってしまった強い「親子愛」「兄弟愛」「友情」「純愛」がまだ残っており懐かしさを感じるからではないだろうか。

 

貧しいマヘシュは浅黒い聾唖者で富裕層のムルーはヨーロッパ系の美人である。この対照的な二人が恋人として成り立つ設定だから、監督は何処か「壁」を意識してそれを打破する力を高校生という若者に託しているようにも見える。

 

感動的な分かりやすい映画である。 

  

 

No.12

青梅竹馬(台北ストーリー)

       1985/119分 台湾 

       ギンレイホール

 

 監督 エドワード・ヤン

 ツアイ・チェン(アジン)

 ホウ・シャオシェン(アリョン)

 音楽 ヨーヨーマ

 

カメラワークは秀逸である。冷たいコンクリートの空室空間。昼間の喧噪に溢れた雑踏に対比する深夜の静けさ。灯台の回転灯のように現れては消え、消えては現れる車のライトに照らされた影。意味ありげな富士フィルム(富士相紙)の相似形のネオン。一転して写される俯瞰される断崖の海岸の大自然。

 

これに比し、脚本は凡庸で退屈。同級生同士の恋愛、男は地縁縁者と過去に縛られ飛びだせない。女はそれらを捨てて未来に生きようとする。

NYへの脱出は万能薬では無いと男は言う、しかし台北に残っても周りから災難が次から次へと

男を襲う。人生何処に居ても苦しい、同級生3人の三角関係、アリョンはどちらも愛しているようで、愛していないのでは、ただ青春という過去に拘り続けているだけかも。

 

台湾の若人はアメリカ文化と日本製品に囲まれ過ぎて、民族のアイデンティテを見失う危機が当時あったのかもしれない。その意味でアジンはドライな国際人の感覚で、アリョンはウエットな民族派という見方も出来る。

 

良く見れば凝った作品だが、ざっと見れば退屈間違い無い特殊な作品。

 

No.11

歓びのトスカーナ

        2016/116分 伊、仏

        シネスイッチ 銀座

 

 監督 パオロ・ヴィルズイ 「人間の値打ち」

ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(ベアトリーチェ)

ミカエラ・ラマッォティ(ドナテッラ)

 

題名からの印象とは異なる内容の映画。

原題はLA PAZZA GIOIA(気違いの愉しみ)、英語の題名は Like crazy 。

冒頭はトスカーナのワイナリーかと思わせる農作業が映し出されるが、どうも作業する人物が何処かおかしい。実はここは司法療養所で拘束の必要性が薄い軽度の精神病患者が共に暮らす施設なのだ。

ベアトリーチェは躁状態、ドナテッラは鬱状態、この二人の患者が主人公。

 

精神病という深刻なテーマだけに観客を意識してか、コメディータッチに仕上げている。

笑わせ役がベアトリーチェ、喋りだすと止まらない設定なので少しうんざりさせられるが奇想天外な脱走患者を演じて不足ない。実は監督とは「人間の値打ち」で同じ窯のめしを食った間柄で気心が知れているのだろうか。

 一方ドナテッラはやせ細り全身タトーで気持ちが悪い、何時でも自殺しそうな鬱患者そのもの。この対照が面白いし、ベアトリーチェの過剰なお節介が不思議と二人の距離を縮め、友情に発展していく意外な展開も丁寧に描かれている。

 

でも、結論から言ってこの作品の良さはクロージングにあると思う。

私は事故死を想像していたが、心温まる予定調和が逆に作品に品格を与えた、うつ病患者の我が子への愛の深さに誰しも涙するに違いない。

 

この部分が無かったら多分凡作に過ぎなかったであろう、屈指のエンディングであった。

 

 

 

No.10

海よりもまだ深く

 2016/117分

 

是枝裕和 監督  音楽 ハナレグミ

阿部寛、希木樹林、真木ようこ、小林聡美

リリー・フランキー

 

「歩いても 歩いても」等と同じテイストの家族ドラマ。

ここでは、死んだ駄目親父と博打すきの駄目長男が台風の目となって話は進展するが、結局は母を描いているのだと思う。母の息子に対する盲目的な愛が自然に描写されて無理がない。

家族って「父」はどうでもいい脇役で「母」が主役なのが普通。母は無償の愛で子供を包む、それで子供が救われることもあるだろうし、ダメにする場合もあるかもしれないが子供を愛さずにはいられない一方的な母は悲しいから、美しいのかもしれない。

勿論いがみ合い、戦っている親子も世の中にはいるし、母はいつでも神ではないがややもすると、男は美化しがち、これが本作品の底流にあるのではないか。

もっと掘り下げて欲しいところだが、ほんのりとしたところが持ち味の監督なので、それなりの作品に仕上がっている。

希木樹林、阿部寛、などキャスティングの力が大きいと思うが。

 

No.9

わが命つきるとも

  1966/120分 英 アカデミー作品賞他5部門獲得

 

フレッド・ジンネマン 監督

 

ポール・スコフィールド、スザンナ・ヨーク、ロバート・ショウ、オーソン・ウエルズ

 

名作の誉れ高い作品だがイングランドの風土が日本人に馴染まない所為か、日本ではあまり評価されなかったようだ。

 

本ページでは作品を離れて、イングランドの王物語の中核をなすヘンリー8世(1491~1547)の所業を備忘しておく。

 

彼の事績で最も重大な事は、国教であったローマ・カソリックを捨て自ら主宰するイングランド国教会を設立したことであろう。

今日でも英国は独自の教会組織となっている(非カソリックだが厳密な意味でのプロテスタントでもないらしい、聖公会)。

 

その発端は一番目の妻キャサリンが②メアリーという王女を産んだが後継者の王子を産めなかったので離婚して、アン・ブーリンを2番目の妻として迎えようとしたことであった。

だが、ローマ・カソリックでは離婚は認めないのでローマ・カソリックを脱退して結婚した。

 

キャサリンは幽閉され獄死、アンも③エリザベス王女を産んだが王子に恵まれなかったので、反逆罪の汚名で処刑された。

 

3番目の妻はジェーン・シーモアは①エドワードという王子を産んだが産後のひだち悪く死亡

4番目のアン・オブ・グレーブスは政略結婚だったが美人ではなかった故?離婚

5番目はキャサリン・ハワードだったが、前愛人関係で処刑、

6番目はキャサリン・パーだが彼女は庶子だった②,③を教育しヘンリー8世を継いだ①エドワード6世早世後の、②メアリー1世、③エリザベス1世 の女王就任をヘンリーに懇願し実現させた。

 

父ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世、エリザベス1世というチューダー王朝時代は、多くの血が流されたヘンリー8世のわがまま残虐性と、稀代の名君と言われた処女エリザベス1世にまつわる多くの逸話を後世に残したドラマティックな時代と言えよう。

 

**

ところで、この映画はエドワード8世の物語ではない。

主人公はトマス・モアという大法官で、彼の類まれな知識と清廉潔白な人生を描いている。

トマス・モアと言えば「ユートピア」の作者で世界中に知られているが、カソリック信者でヘンリー8世と対立しても信念を曲げなかった硬骨漢としてローマ・カソリック、聖公会の聖人に列せられた事はあまり知られていないかも知れない。

このような背景で「ユートピア」を読めば、その風刺の意味が理解できるらしい。

 

**

ヘンリー8世の知恵袋、茶坊主としてクロンウエルが重要人物として描かれているが、これはトマス・クロンウエルで、17世紀一時王を追い払い共和制を弾いたオリバー・クロンウエルではない。念の為確認しておこう。

 

血塗られた英国王朝史が議会制民主主義や三権分立という今日的国家の制度設計を発現したとは皮肉である。

No.8

人斬り

 1969/140分

 

五社英雄 監督  橋本忍 脚本  司馬遼太郎 原作

 

勝 新太郎、仲代達矢、石原裕次郎、三島由紀夫、倍賞美津子

 

娯楽巨編の範疇に入る作品だが、見どころが多いのでお勧め。

脚本、配役、キャメラ 非の打ち所なし。

これが何故娯楽映画かというと、見せどころの音楽が活劇調で安っぽく、必要以上にエログロで観客に明らかに阿ている、ということだろう。非常に惜しい。

 

今更50年近く前の映画を何故今かと言うと、仲代のTV談話が発端だった。

この映画の為に京都に飛行機で向かっていた仲代は三島由紀夫と隣席だった。

二人の機中雑談の中で、仲代は三島に作家なのに日頃から筋肉隆々である必要を質したところ、切腹する時筋肉が無ければ脂が出てみっともない、と答えたそうだ。

 

三島は本作で薩摩の人斬り田中新兵衛役を演じ、凄まじい形相と切腹場面が特異な印象を与えている。

この作品の翌年、三島は映画でなく実際に切腹した。

 

また、これも映画と事実との妙な関連だが、実際に田中新兵衛を切腹させた咎で閉門させられた武士が三島の曽祖父だったという因縁があったのも驚きだ。

 

勝新太郎 この人は生前より亡くなってからの方が評価が高い。

本作は当たり役だろう。

武市半平太は悪人風に描いてあるが、西郷隆盛かそれ以上の至誠高い大人物だったという証言者も多く、司馬史観に異議を唱える人も居ることを付記しておく。

土佐勤王党の歴史的意味、テロの果たした役割から、今日的教訓を得たいものだ。

 

 

No.7

しゃぼん玉

     2016/108分

 

監督 東伸児 (相棒)

原作 乃南アサ (直木賞作家)

 

林 遺都、市原悦子、藤井美菜、相島一之、綿引勝彦

 

宮崎県の山間部にある平家の落人部落 椎葉村 の話。

周囲から隔絶した地域で独特の文化伝承を持つ秘境。

稗搗節で那須大八と鶴富姫の悲恋が語られているのもこの部落である。

標高が高いので冬は寒く、耕地も狭いので生活は苦しいと思われるが、何処か桃源郷の趣があり那須大八もそれが為攻撃を諦めたとも言われている。

この映画も、美しい山川や村の佇まいが桃源郷的に写され、一度は訪れたくなる日本の原風景の一つを醸している。

 

都会の生活は落ちこぼれにはつらい、若者は罪を犯しこの部落に逃げ込む。

偶然に出会ったオババは村人には孫と偽り、自宅に受け入れ無償の愛で包み込む。

 

ここでは、忙しい都会生活とのんびりした田舎生活の対比さらに、

他人を裏切る(青年はひったくりで生きてきた)行為と他人を信じ込んで疑わない純朴な行為(オババ)を対比させ、「人生お金だけではないよ、やさしさという心が人を支えるのよ」という言わば言いつくされたことを、、椎葉の自然の中で肩を張らずに語っている。

 

そう、本作はこのオババが生命線なのだ、少し太った市原悦子が実に良い、病気がちだと聞くが頑張った。

 

過疎が続く全国の集落には、このようなオババが沢山いることだろう。都会に疲れた若者を癒してくれるし、老人には出来ない肉体労働の需要もあるのではないか。

都会に憧れるなと言っても、出たいだろうから一度は出ても、又恥ずかしがらずに戻ってくればいい、そんなことも考えさせられる作品だった。

 

No.6

沈黙

    米・イタリア・メキシコ 2016/162分

 

マーティン・スコセッシ 監督

原作 遠藤周作

 

アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゴ)

アダム・ドライヴァー(ガルペ)

浅野忠信(通辞)

キアラン・ハインズ(フェレーラ)

窪塚洋介(キチジロー)

イッセー尾形(井上筑後守)

 

監督が20年間、構想を練り準備してきたライフワークとも言うべき大作。

 

地味なテーマにも拘らず平日の昼、客席数232のシアターの8割の入り、最近の映画事情からすれば、かなりの客数である。

しかも、クライマックスであるロドリゴの踏み絵のシーンでは、し~んと静まり返って誰も息を止めているのではないかと思うほどの緊張感が漂い、観客のレベルの高さに別の意味で感激を覚えた作品だった。

 

原作は「苦しみに対する神の沈黙(現世利益と信仰)」「キリスト教と日本の風土」という極めて難しい大テーマをキリシタン弾圧時代を克明に描くことで、彼なりの結論を導き出している。

カソリック側からは反論もあるだろうが、ぬくぬくと安全な場所で神を説く布教活動と弾圧下で命と引き換えにする布教活動は同一ではない。弱い人間の恐怖の末の「転び」もあながち責められないのではないか、それを「棄教」と他人は言うが。

 

この作品のエンディングで火葬されるロドリゴの懐に隠れキリシタンがくれた十字架がしのばされているが、これは原作には無く「転び」は「棄教」ではないと弱きものを擁護している監督の視線を感じる。

 

江戸時代多分万人単位のクリスチャンが殉教した(正確な数は分から無い)のは史実である。

彼らは過酷な拷問を受けても信仰を捨てなかった。即ち神との約束を守ったのに、登場する主人公パードレ2名は「転んで」生き伸びた。それは「転べば」信者を捉えられ吊るされた「穴吊り」の恐怖から解放出来、パードレでさえ堕ちたのだから信者も又「転んで」命を捨てないで済む との思惑があったのであろう。でも本当は違うかもしれない、パードレ自身が命を惜しんだともとれる。ここが大きなポイント。そこで神が果たした役割は何だったのか?

 

これからの世界もあちこちで「神の沈黙」が続くのだろう。

間近に迫った死を前に、あの世を信じる人には神は心の依りどころとなるであろうが、

疑念が去らない人にとっては、地獄が地獄であり続けるだけ。

 

信仰とは神を完璧に信じ、その教えで自己を高め、逆境の苦痛を神の恩寵として受け入れ死を神の身許への旅と思う教え、いわば現世否定の思想だろう。そこには肉体否定、精神肯定の思想がある。

 

拷問は肉体が痛みを感ずるもの、棄教は精神が痛みを感ずるもの。

弱い人間は、肉体に精神が負ける、だから責められる。

でも、人はもともと弱い者で、信仰によって強くなるにも限界があるのも否定できない。

この心の中の個人的な戦いを神はじっと見ておられる。

「沈黙」ではなく共に「苦しんで」いるという表現もある。

 

だから、神はすべてを許すのではないか。

キチジローでさえ。

 

外国人監督が日本を描けば、中国的であったりして偏見があるが、本作はほぼ日本人監督の作品と変わら無い、それだけでも凄い。

 

凛とした井上筑後守のイッセー尾形が印象に残った。

 

参考:日本に初めてキリスト教を伝えたのはカソリックのイエズス会(鹿児島にザビエル)で長崎の隠れキリシタンもその後を継いだ同派の宣教師達によって布教された。16cに創設され当初はバチカンと仲が良かったが18cには一時破門され、映画「ミッション」のテーマともなった。

当初は南米がそうであったように、中国、日本も武力で制圧すべきという意見も同会派にはあったらしい。

 

 

 

No.5

トスカーナの贋作

       仏、伊 2010/106分

 

アッバス・キアロスタミ 監督

ジュリエット・ビノシュ、ウイリアム・シメル

 

イランの大監督だが、小津監督を尊敬していた。

淡々とした語り口は似ており、「オリーブの林を抜けて」など日本での評価も高い。

 

本作は初めての海外作品、2作目は日本で撮った(ライク・サムワン・イン・ラブ)でこれが遺作。

2016夏、パリで癌で亡くなった。

 

本作はビノシュとシュメルの二人芝居で舞台劇に近い。殆ど二人の会話だけで成り立っている。その意味では映像作品というより舞台作品に近いか。

 

ビノシュは本作でカンヌの最優秀女優賞を得たが、子育てノイローゼ気味のヒステリックな我儘(失礼)女性を完璧に演じている。誰もこんな女性を可愛いと思うより、避けたい気持ちにさせてくれるから成功したと言わざるを得ない。

 

一方無名?のシュメルもなかなか役にはまり、際立った夫役ではなかったか。

これからの活躍が大いに期待される。

 

キアロスタミの考えてる女性が持っている夫婦観は、夫婦は新婚当時の愛を変わらず持ち続けるべき、そして夫に自分だけを見つめて妻第一であるべきで仕事より優先させるべき、だから家に居るべきだ。そして妻をやさしく支えて安心させ、妻の化粧や衣装が変わった時すぐ気付くべきで、結婚記念日など先に寝てはダメ。愛がすべて。

 

反対に彼の考えている夫の夫婦観は、愛は時とともに変化する、愛してない訳じゃないが形を変える。愛は永遠ではない。仕事は家庭以上に重要なこともある。愛だけでは生きていけない。

 

冒頭シーンは贋作に関する著作の記者発表会から始まるが、いつの間にか他人同士が贋作夫婦となり、あるべき夫婦像をしこたま議論する作品である。

 

ビノシュは自分の主張をとことんして譲らない、シュメルはそれを受け止めて忍耐強くやさしく反論している。

客観的にはシュメルの方が正しいと思うが、女性から見れば反対に映るだろう。

 

それだけ、男女関係は難しく、仲の良い夫婦は少ないのだが敢えてキアロスタミが晩年このテーマを何故選んだのだろう。

 

過去のイラン映画で、市役所内の部屋で利害対立者同士が徹底議論をして、市が仲裁判断を下すシーンがあった。

 

この作品も両者は徹底して議論している。

逃げだしたりはしない、日本人には無い粘り腰である。

それでも結局は分りあえないで、男は9時の便で英国に帰るので、

二人はホテルに行っても愛し合うことが無い。

 

監督70歳の時の作品、人生を振り返り、そろそろ結論を出しておきたくなる心境は分かる。

節目に、夫婦とは?を誤魔化さないで勇気を出し晒してみたくなったのかも・・。

 

気になる言葉/ 広場で見知らぬ老人が彼に教唆する「優しく肩を抱いて一緒に歩く、大事なことはこれだけ」

 

ベルイマンの遺作は親子の確執でやはり会話だけだった。

本作は遺作の前作だが、夫婦の確執で会話だけ。

 

何だかんだで、人生家族なんだとも思う。

 

No.4

星守る犬

                   2011/128分

瀧本智行 監督

西田敏行、玉山鉄二、川島海荷、余 貴美子

 

犬好きは見てはいけない。

動けなくなったホームレス飼い主に、食料を運ぶ秋田犬「ハッピー」のけなげさと、飼い主が死んでからもそばを離れなかった律義さに泣かされ、そして心無い人のむごい仕打ちに又、泣かされる。

 不幸せな飼い主と不幸せな犬、でも濃厚な愛し合う時間が持てたから幸せだったとのこじつけも、な~んだかな~。

やはり、無責任に犬は飼ってはいけないよ。

悲しい映画にはみごとな大自然の美しさが似合う。

美瑛のひまわり・・・。

 

西田敏行は心臓が悪い役を演じているが、実際も悪いらしく、当然上手い。

何かパターン化した役ばかりが気になるが。

玉山鉄二も良いが、川島海荷には名前どおり、荷が重かったか?

No.3

耳をすませば

                   1995/111分

原作 柊あおい 脚本 宮崎駿監督 近藤喜文

 

東京の郊外、聖蹟桜が丘あたりの普通の住宅街が舞台だが、ヴァイオリン工房などドイツの田舎から移築したみたいな作りで、「又か」と思わせる。

ジブリ作品は基本的に西洋劣等感に支配されており、西洋への憧れに満ちている。

 本作に登場するお爺さんもアルプスの少女ハイジのお爺さんそっくりであり、語る逸話もヨーロッパでの出来事である。

それはさておき、どの家庭でも高校進学を目の前にすると、親子とも将来像を何となく意識せざるを得ず、少なからず悩む。

子供によっては、親に反発し自分の道を模索したりもする、この不安定な時期を映画化したことが大きく支持を集めた理由だろう。

 

主人公 雫(しずく)は結局高校へ進学して知識を広めてから将来的には作家になる道を選んでいるので、親からみても安心な映画となっている。

 

一方、精司はヴァイオリン職人になる為、イタリヤへ行く。

職人になる為には若い頃からの厳しい修行が必要だからだ。

 

一応ここで、多様な人生選択を提示して、世間の親の普通の考え「せめて高校ぐらい出てよね」ということに釘を刺している。

 

でもこれは、特殊才能を持ったひと握りの人たちであって、才能を見誤るとつぶしが利かず結果が悪いことも、又語られてはいるが。

 

人生は多様だが、何度かこんな迷う時期を選択し、成功したり失敗したりして進んで行き、どの道を選んでも、常に先が見通せないのが人生というのも事実。

 

正解は無い。親も子も悩みの後の選択にかければいいだけ。

 

そんなことを考えさせる作品だった。

 

私にはあまり心に響く映画では無かった。

 

No.2

銀河鉄道の夜

                    1985/107分

宮沢賢治 原作 脚本 別役 実

杉井ギザブロー 監督  細野晴臣 音楽

 

アニメ(但し大人向けの)最高峰の作品。原作より感動が深いかも知れない。

 

まず動物が擬人化されて演じられていることに驚かされる。ジョバンニ、カンパネルラなど殆どがネコ。

 

何故ネコなのか、多分ジョバンニの病気の母さんの夕食用のミルク探しが筋の骨格となっているからではないか。

大きな牛乳瓶を大事に胸に抱きながら、子供が川に流され大騒ぎとなった星まつりの夜の町を駆けずり回るジョバンニ役はネコが最適だ。犬には牛乳瓶は似合わない。

 

ところが、ネコの顔は涙こそ流すが殆ど表情は変わらないので、仮面劇のようだ。

能面の下を如何様にも想像出来るように、という効果を狙っているのだろう。

 

作画は影絵もしくは幻燈映写のイメージで作られているから、暗い画面で目だけが浮かび上がる場面が多いので、きっと子供達には暗く怖く映るだろう、だから大人向けアニメ。

更に、シュール、抽象的な表現(ダリ風)もあるので、尚更だ。

画面はアイデア満載で、メルヘンチックで色彩も綺麗。

 

ジョバンニとカンパネルラは自己犠牲という概念を具現化した少年である。賛美歌309番も登場するのでキリスト教を前提にしているが、それは西洋の田舎町を舞台にした物語だからで、賢治は法華経を説いていると思われる。

「他人が幸せにならなければ自分の幸せは無い」

 

カンパネルラの死はあるいは賢治の妹の死と関係してゐるのかもしれない。

全編に「死」の影が漂い、宙空を走る銀河鉄道は死者の魂を天国に運ぶ船。

時間と空間が伸びチジミして、宇宙の不思議に満ちている。

言うに言われぬ寂寥感、がらんとした車内はかつて人が何処かに忘れてきた「生まれたままの孤独」空間なのかも知れない。

 

この作品が胸に突き刺ささるのは、利他の思想と孤独感が一体となっている事ではないだろうか。

他の少年は祭りの輪の中に居る、ジョバンニは印刷所のアルバイトや病気の母親の為に奔走し遠くで祭りの音を聞くだけ。父も居ないのでからかわれる。

 

清く、貧しく、美しく、更に孤独な魂が、いやそうであるが故に人の為に命を捨てることが際立って美しく輝く。神も天で祝福し、輝ける星として天の川に浮かぶ。

 

そうなのだ、ここで召されるのはカンパネルラではなくジョバンニでなければなら無いのに、

輝く星になったのはカンパネルラの方だった。

 

この矛盾を賢治は、カンパネルラの意思を継ぐジョバンニの強い決意を語ることでつじつま合わせを図った。

 

何故こんな込み入った筋をしたのだろう、それは姉と自分は同類の人であった、もっと言えば、同一人物を分解して(生と死)生きている自分を正当化したかったからではないか。

二人には何の相違点も無い。

 

親友カンパネルラは友人を助けて死んだが、「銀河交流電灯の一つの青い照明」として今も輝いている。

 

*最後に細野晴臣の音楽が宇宙空間を流れる特殊信号のように、見事な世界を現出させているのも特筆しておきたい。

 

*このような心象風景作品を嫌いな人もいるだろうが、そんな人でも何かが心に刺さること請け合いだ。

 

No.1

トッド・ソロンズの子犬物語

     2015/88分(形式的なインターミッションあり)米

 

監督・脚本 トッド・ソロンズ

ドーン・ウイナー(安楽死予定の犬を救い出す女性)

ダニー・デヴィート(時代遅れの映画学校教授)

エレン・バースティン(死が間近の老女)

ジュリー・デルビー(少年の母親)

 

米国ではダックス・フンドのことをウインナー・ドッグというのだそうだ。

このw・dが飼い主を転々として、最後は車に轢かれて死ぬまでの、夢も希望も無いリアリズム映画。

 

可愛いとか、癒される、とは無縁の内容でまず題名から監督に騙される。

そもそも題名に自身の名を冠するのが禁じ手と思うが、このように常識の反対をいくことが主眼とも思える捻くれ映画、よく言えば既成芸術ぶち壊しの芸術性?まあそれ程でも無いか?

 

だが悔しいことに、捨てがたい。

映画館入口の紹介文に、監督は鑑賞後いやな気持ちにさせるべく作ったとのことである。

確かに、いい気持ちより悪い気持ちの方がインパクトが強くて、明日への修正の一助になることもある。

 

w・dがまず出会うのがシャブ中とその兄弟のダウン症二人、次はクビ間近の教授、次は死が間近い老女、登場人物は全て社会的弱者で庇護されるべき人にも関わらず、温かい眼差しが全く無い。特になぜこの場面でダウン症兄妹の姿を晒さなければいけないのか悪趣味さえ感じる。

 

悪趣味といっても、本当は本音をついているのが底冷えどころではあるのだが。

 

監督に一言: 

「人生つらいことばかり、生きるに値しない、無意味に生きて、無意味に死ぬ。

どうでもいいか」では人生は送れない。

 

真実を述べればそれでいいか、そうでもないだろう、うわべだけの人間関係でも折り合いをつけてつじつまを合わしていけば、そもそも影絵のような命だから、嘘の人生も又存在し得る。

 

社会も人間も信ずるに足りない、神も仏も無い、絶望しかないと叫ぶのだったら貴方が即死ねばいい!

 

それでも映画を作るのは、何かしたいからではないか。

その意味を作品にして欲しい。