☆ 5.0

1945 無防備都市 伊 No.10 

 

☆ 4.5

1989 フィールドオブドリームス 米/C/C

2021 ドライブ マイ カー 日 No.2

 

☆ 4.0

1946 戦火のかなた 伊 No.3

1946 靴みがき 伊 No.12

1948 ドイツ零年  伊 No.4

1950   神の道化師フランチェスゥコ No.9

1951 ウンベルトD No.11

1995 アンダーグラウンド 仏他 No.5

1998 アルマゲドン 米/B・ウィルス

2007   ノーカントリー 米 No.1

2009 きっと、うまくいく インド

2011   我が母の記 日 No.6

2016   ボブという名の猫 英

2021  コーダあいのうた 米他 No.8

 

☆ 3.5

1987 ハチ公物語 日/仲代達矢

2008 攻殻機動隊 2.0 No.7

2013 ゼロ グラビティ 米/

 

☆3.5

1968 オー 仏/J・P・ベルモント 

2020 KCIA 南山の部長たち 韓

 

3.0

1999 梟の城 日/司馬遼太郎


No.12

靴みがき 1946/90分

 

監督 V・デシーカ

リナルド・スモルドーニ、 フランコ・インテルレンギ

 

リアリズム映画とは言え、何かほっとするものがあってもいい、いや鑑賞者は小さなハッピーエンドさえ期待しているものだ。

何故こんな夢も希望もない作品を作ったのだろうか、誰しも疑問を持つことだろう、特に平和な今日の日本では。

 

しかし本作は「ウンベルトD」と対になっている作品ではないかと考える事もできるのではないか。敗戦国の戦後の混乱期において庶民は生きることに必死で精神的な余裕を多くの場合持ち合わせていなかった。そんな状況で犠牲になったのが高齢者と子供であろう。

ここに焦点を合わせ、このような悲劇を世に知らしめ、少しでもその改善施策を当局に迫ろうとデシーカは考えたのではないだろうか。

 

本作は大人に利用された子供、貧しいがために収容された少年施設の冷たさ、その挙句幼い命が犠牲になるいたたまれない話である。

 

暗い映画ではあるが忘れることのできない力を持っている、やはり優れた作品には違いない。

No.11

ウンベルト 87分/1951 伊

監督 V・デシーカ 

 

カルロ・バティスティ 他アマチュア

 

一見、夢も希望もない暗いリアリズム映画。

しかし、見方を変えてみる事も出来るのが不思議。

独居老人が年金だけでは暮らしていけず、福祉も無い敗戦国の戦後の混乱期、こんな人は我が国にも大勢居た。若ければどん底から這い上がる事も出来ただろうに、老人は無理。

路上で行倒れか列車に飛び込む他無い。

この老人福祉問題を社会提起した意味は少なくないのではないか。単純で泥臭いが。

 

復興には老人は役に立たない、荷物でしかない。

今日でも尚、基本的には社会的無用な存在。

だが民主主義のお陰で平等な選挙権が付与されているので、高齢者増の今日、社会保障が充実しているので、ウンベルトDの様な人は最早イタリアにも居ないとは思う。

これを「進歩」というのだろう。

 

この作品は犬と老人と言う題名にしても良かった。

老人にとって犬だけが身内で友。かけがえのない存在。

自殺を試みるが、犬は逃げる、動物の本能だ。これだけは老人の言う事を聞かなかった。

このことが生命を維持しようという基本的な生き方を示してくれる。

即ち、人が犬に教えられたのだ。

 

今後この老人は恥ずかしさを捨て街で物乞いをして生きていけるはずだ。

例え行き倒れでもいい、死ぬまで生きるのが自己の生命にたいする義務なのだから。

貧しさと犬…このテーマも少し温かさをかもしほっとさせられた。 

No.10

無防備都市  1945/106分 伊

 

R・ロッセリーニ 監督

原作 セルジオ・アミディ

脚本 〃 & F・フェリーニ

 

アルド・ファビリッツイ(司祭)マルチェロ・パリエーロ(ナチ抵抗指導者マンフレーディ)

アンナ・マニャーニ(妊婦)マリア・ミーキ(密告者)

 

敗者都市が武装解除された状態を一般的に「無防備都市」という。

連合軍がイタリアに侵攻して、ムッソリーニ政権は瓦解し、代わりにナチスがローマを制圧していた。市民は米国側に着き、各所で反ナチ地下運動が展開され、これを弾圧するナチと市民とのし烈な闘争がテーマになっている。

 

ローマは1944/6に解放されているので、本作は1943に発案されたが中断して、解放後制作され1945年に完成した。

 

3っつのエピソードが語られているが、どれも緊迫感溢れて退屈しない。

又ネオリアリズム出発点と言う評価だが、反対にどの場面もやや感傷的に語られているので、普通のドラマとして十分楽しめる要素があると思う。

不屈のイタリア魂を謳い上げ、武力に屈しない人の強さを描くことにより、当時多くの人に勇気を与えた事だろう。

 

名画中の名画なので語るべきこともないが、子供たちの爆弾テロは本当にあったのだろうか?また力を失った末期のナチが、麻薬を使った悠長な諜報活動を実際に行ったかどうか 疑問が無くもないが、司祭銃殺の場面に指導されていた子供たちが詰めかけ、司祭に声をかけるラストシーンは誰しも胸を打たれることだろう。

 

司祭の最後の言葉「良く死ぬことは易しい、良く生きることは難しい」、殉教者として死ねるのは幸せなのだろう。

 

余談だが、

現代日本は「良く死ぬことも、良く生きることも難しい」、死が遠くにあるから。

 

No.9

神の道化師フランチェスコ  1950/85 伊

 

R・ロッセリーニ 監督

脚本 監督及びF・フェリーニ

 

13世紀始めの聖フランチェスコの半生を描いた10のエピソードを映像化したもの。

一見大した映画に見えないけど、よく見ると型破りな作品である事に気づく。

 

① 宗教映画らしくなく、底抜けに明るく、コミカルコント風な仕上がり

② 配役は全員実際のフランチェスコ教会修道士との事だが、その分お芝居臭さが無く、

生活臭のある普通の人、言わば聖人説を否定した身近な隣人に見える事。信徒の中に相当な間抜けを描いているが、これが現実感を醸し出していて、かえって神の様に見えてくるから面白い。

③ フランチェスコが教えているのは明確で単純。(イ)人間は罪深い存在なので、神の下にすべてを投げ出して謙遜、自己卑下、要するに無私になりなさい。

(ロ)生きる歓びとは、苦しみや侮り、辱めや不快感に耐え、即ち己自身に打ちに耐え神の教えを伝える事。

④ 要するに聖書そのものの教えを分かりやすく修道士に具現化した。

⑤ 自己否定の最も邪魔になるのが「富」である。フランチェスコ教会は徹底した清貧を旨とし、歴史上ローマ教会ともたもとを分かち独自の道を歩んだと言う事実が証明している。

 

私のこのH/Pに昨日、思い付くままコーナーに「自我」を掲載した。

偶然だが、今日見たこの映画のテーマと重なる。

 

宗教は古今東西多様だが 自己否定、人間無力を前提にしているように、最近感じている。

「南無阿弥陀仏」唱えることで身を阿弥陀様に委ねる。自我忘却の一瞬。

「アーメン」教会で祈る、偉大な神を思い、自己の小ささを確認する。

 

***

1950と言えばまだイタリアも貧しく、犯罪も又多かった。

こんな社会に放り込まれた庶民に「清貧」の価値を思い起こさせる一助にはなったのではないか。

No.8

コーダあいのうた 2021/85分 米、仏、加

 

シアン・ヘンダー 監督、脚本

 エミリア・ジョーンズ(娘・健常者)、トロイ・コッツアー(父・聾者)、ダニエル・デュ  

 ラント(兄・聾者)、マリー・マトリン(母・聾者)

 

「エール」のリメイクとの事だが、原作を見て無いので脚本力が不明だが、’22アカデミーで作品賞、助演男優賞と共に脚本賞も獲得したので監督の改良度が高かったのだろう。

 

作品賞で競合した「ドライブ・マイ・カー」を凌駕したことになっているが、私の判断では数段後者の方が内容が深いと思うが?本作は「御涙頂戴」の域を基本的には出ていないと思うので。

 

ただ感心した事が4っある。

・助演男優賞を貰った父役は実際の聾者である。相当努力してハンディを克服して栄誉に輝いた事は特筆されよう。見事な演技である。

・健常者であるエミリア・ジョーンズの出ずっぱり手話も巧みと思われる(判断できないが多分)

・聾者に対しては少なくとも我が国においてはさぞ暗い人生だろうと想像している人が多いと思うが、この映画ではこの一家を底抜けに明るく描いている。セックスは開放的で人前でも恥じる事がない。生活を健常者と同じレベルでとらえて付き合っている周囲も又見習うべき視点。アメリカ社会が既に実際にそうだかどうかは不明だが。

・場面展開の見事さ:娘が出演するコンサート会場に家族3人で出かけるが歌が全く聞こえないので歌の意味や歌い方の巧拙が分らない。周りの席が興奮して立ち上がり大拍手しても3人はその意味が分からない。映画館の音響が突然止まる。静寂に包まれる。3人の目には周りの聴衆がパントマイムや影絵のように映るだけ。そこで映画鑑賞者は アッ!と気づく。聾者の世界はこうなんだと。すごい。

 

社会弱者への配慮が強く叫ばれている今日、この作品の持つ意味は確かに大きい。

 

因みにコーダとはchildren of deaf adalt (聾者夫婦からうまれた子供)の意。

No.7

攻殻機動隊 2.0  2008/85分

 

押井 守 監督

士郎正宗 原作(漫画)

川井憲次 音楽

 

リメークである。一部3D映像され色調もやや茶っぽく、音楽も新しくなった。

前作は世界のアニメ界に新風を巻き起こした名作であるが、本作は電脳社会映画に慣らされてきたせいもあるが、ショック度は低く感じた。

 サイボーグやアンドロイドが捜査官となって活躍するのだが、武器はやや進化した機関銃主体というのも変だと前回書いたが、今回も継承されている。シュワルツネッガーのプレディターと同じ透明人間が出てくるがこれもオリジナリティーに欠けるか。

 

人は生まれた時は「動物」である。その後、他人との接触、社会との関わり合いを学習して「人」となる。これは記憶の集積に他ならない。この記憶をハッカーされて違う人間になる怖さを描いている。高度な情報化社会、膨大な情報がマルチメディアを通して洪水のように毎日押し寄せる現代社会。「人形遣い」で洗脳されたサイボーグは現代人そのものかも知れない。

子供を産んで次世代にバトンタッチし死んでいく単純な事の大事さ、ロボットは無縁。

ラストではロボットの寂しさを描き、個性とは人間らしく生きる事とはという、大きなテーマを突き付けて単なるアニメの域を脱している。

 

音楽の素晴らしさを特筆しておきたい。

No.6

わが母の記  2011/118分 日

       原作 井上靖

       原田真人 監督

       樹木希林、役所広司、宮崎あおい

 

原作より感動したという意味で単なる文芸作品を一歩出たと思う。

認知症の母を介護するのは実際はもっと過酷であろうが、これを見た人は亡くなった母が自分をどう思っていたのだろうと思い、自責の念にかられるのではないだろうか。

幼少期に別れて暮らすことになった人や、自分は母に愛されていなかったと思っていた人は特に。夫婦は他人だが母と息子の絆は強い。息子は母を失ってその愛に気づくが既に遅いのだ。

 

「今晩の時計の音は大きい・・」画面展開は見事である。

 

 

No.5

アンダーグランド  1995/171分 仏・独・ハンガリー 48’カンヌ パルムドール

          エミール・クリストファー 監督

          

          ミキ・マノイロヴィッチ (マルコ)

          ラザル・リストフスキー(クロ)

          ミリヤナ・ヤコヴィッチ(ナタリア)

 

ナチスによる占領、ソヴィエトの侵攻、チトー共産党政権、民族内戦による国家分裂 と言う過酷な歴史に揺れた「ユーゴスラヴィア」を正面から重々しく捉えず、コミカルにコミック風に時にロマンティックに描いた大作。

 

一本筋が通った映画というより、すき焼き風の雑多な要素が入り混じった味が、鑑賞後忘れられない記憶として残る稀有な作品になっている。

 

バルカン半島の歴史は疑いようのない悲劇の連続であったと言う事実が、どんな漫画チックな展開の作品を作ろうとも、それを否定することなど誰にもできないという強みになっている。

その意味ではナチス収容所を題材とした作品に似ている。

 

ファーストシーンとラストシーンは楽隊が吹き鳴らすエキゾチックな歌に合わせた踊りが出てくる。どこかフェリーニの大団円を想起させ、現世否定の匂いがする。

 

50年の地下生活から出てきた場所がドイツ兵が出演する映画の撮影現場だったというアイデアにも驚かされたが、びっこの弟に車椅子の兄貴がたたき殺される場面で、それまで日陰者だったチンパンジーと障害者の弟に日が当たる展開に強者否定の強い意志を垣間見た。

 

ナチス否定、共産主義否定(地下生活)、民族主義否定(内戦)、資本主義否定(マルコ)・・・かすかな光は見えない。

 

No.4

ドイツ零年 1948/75分

 

ロベルト・ロッセリーニ  監督 脚本

 

子供は大人の言う事を疑いなく信じるから、言葉に注意!

 

私は終戦の混乱がまだ続いていた頃が小学生だった。

私はその頃、大人に2度騙された経験がある。

一度は米を持って来ると饅頭にしてやると言われ、黙って家から米を持ち出し男に渡し、ドロンされた。もう一度は学校祭の準備で日曜日に友だちと登校していたところ、見知らぬ大人が現れ、紙を買いに行くから自転車を貸してくれと言われ、絵具一式を預けられ安心させてドロンされた。当時は米も、自転車は特に貴重品だった。

 

だから、この映画の少年の心が良く分かる。秤を騙し取られたのに始まり、先生から「弱いものは死に、強い者が生き残る。病気の人が死ぬのも仕方ない」と言われる。

うちに帰ると、お父さんが「死にたい、死にたい」と何度も言っている。

少年はそっくり信じてしまった。

 

結果父に毒薬を飲ませ死なせてしまった。

先生に叱咤され、事の重大さ気づき、高所から飛び降り命を散らした。

 

終戦直後のベルリン、貧困家庭で食べるものもない家庭では病気の父は荷物だったから、父の愚痴も仕方ない。先生の言ったことも一般論では嘘ではない。

誰も悪くないのに、幼い命を天が奪った。

 

貧困が原因ともいえるが、そうでもない現代にも、幼い子供に危険な言葉を浴びせていないだろうか?心に重い課題を課せられた作品でもあった。

 

No.3

戦火のかなた 1946/114分

 監督 ロベルト・ロッセリーニ

 脚本 フェリーニ他

 マリア・ミーキ、ガール・ムア、ドッツ・M・ジャレソン

 

「無防備都市」「ドイツ零年」と本作の3本はロッセリーニのイタリアン・リアリズム代表作

と言われている。物資の不足していた大戦直後の46年にこんなレベルの高い作品を作り上げたイタリア映画界も凄い。

 

尤も、日本も映画界の立ち直りは早く、国際的な評価を得た監督だけを見ても、黒沢の「酔いどれ天使」が48年、小津の「晩春」が49年、溝口の「西鶴一代女」が52年と名作を多く輩出し

た昭和20年代は黄金期であった。

 

これは戦争で途絶え溜まっていた映画制作の熱エネルギーが一気に噴出したという供給側の事情と抑圧された民衆の精神が映画という架空の物語に夢と希望を求めて殺到したという需要が支えたのだろう。映画館は何処も立ち見が当たり前だった。

 

**

イタリアは早めに降伏したので、ドイツが攻め込み掌握。イタリアと言う国土で連合国対ドイツという戦いが始まった。イタリア国民は連合国を解放軍として歓迎し、ゲリラ部隊は連合国と共にドイツと戦った。この作品でもドイツはゲリラを虐殺する悪人として描いている。監督はイタリア人でかつては連合国と戦ったのだからその複雑な感情を理解しなければいけないだろう。日本にあてはめれば、国民が連合国軍隊と手を取り合い東条英機軍と戦った構図になる。イタリアではドイツの傀儡であるムッソリーニ政権が東条英機軍ということになるが。

**

このように訳の分からない変遷を顧みるのに、自分の哲学とか好みとかを持ち込み歴史を俯瞰するのはきっと難儀なんだろう。戦争やそこに生きる人間の本性を感情や私見なしに、あるがままに非情にそのまんま描くしか道が見えなかったのかもしれない。ご破算にして次のステップに進む避けて通れない課程だったのかもしれない、イタリアン・リアリズムとは。

***

この作品はオムニバス形式で松花堂弁当風になっている。違う物語でも陰で一貫するテーマを持つのが普通だから、それを見付けるのが鑑賞者の課題。

 

①37/7に連合国軍はシチリアに上陸、そこで道案内の女性とアメリカ兵が言葉が通じ合わなくても心がつながってしまった。ほんのひと時の会話だけだったが。これが死を超越した感情を呼び覚ました。

②アメリカ黒人MPと泥棒稼業の少年の奇妙な友情、善導させようと心を砕く黒人、でも貧困がなせる罪を裁けないことを知り去る兵士の悲しい後ろ姿。

③兵隊はかつて世話になったローマの女を忘れられないでいた。その後女は売春婦となり偶然泥酔の彼を引き入れるがそれとは判らない。うわごとの様に女性の名前を言い続ける男。ひと時も忘れないで探し回ったらしい。過去を思い出した女が住所メモを渡し翌日思い出の場所で会えるようにと・・。

③firennceでは銃弾を避けながら、ゲリラになった彼氏を探す女性と家族を探す男は結果的には徒労に終わったが。

④修道院では異教徒に心改めてもらう為、異教徒には食事を与えるが、自分たちは絶食する僧侶たち。

⑤ゲリラ戦の最中死亡した仲間の遺体を危険を顧みず奪還しに行き、その為に捕縛され処刑される多くの兵士たち。

 

私は③の逸話に惹かれた。

画面的にはポー川の浅瀬での戦闘場面が簡潔で死ぬ事でさえ美しく撮られていると感心した。

***

一般的には反戦がテーマと言う解釈だと思うが、私には人は捨てたものでないという「人間賛歌」のように思える。恋人や家族や仲間や貧しい少年に対する愛、その為には決して命や立場等が軽く見えたりする。貧しく、混乱した世でさえ失わないそんな人の持つ心の豊かさを表現していると思う。

 

それがニュース映画風に感情移入されることなく語られるので、人間の価値を再認識させられた、やはり名画と呼ぶにふさわしい作品と思う。 

No.2

ドライブ マイ カー  2021/179分 日

  濱口竜介 監督・脚本、 大江崇允 脚本、原作村上春樹

 西島秀俊、三浦透子、霧島れいか、岡田将生、パク・ユリム、ジン・デロン

 

ゴールデングローブ賞で作品賞他獲得した話題作と言う事で、遅ればせながら鑑賞した。

3/25にはアカデミーの発表があるので、楽しみがさらに膨らむ。

 今年のノミネートを全部見たわけではないのでランク付けは無理だが、過去の受賞作は9割がた見ているので、その水準からすれば本作は少なくとも脚色賞は確実で、うまくいけば日本初の作品賞も可能な作品である事は確かと予想する。

 

原作は短編だが本作は長編小説になっている。即ち1/3が原作で殆どが創作である。

一貫したモチーフは亡くなった妻の浮気を通した彼女の心の闇で、それを探る夫のロード・ムービの形をとっている。

 

原作では性を次にように描いている。

奥さんが色々な人と少なくとも4人以上短期間セックスをしていたことに対して、ドライバーの「みさき」は「奥さんはその人に心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」「だから寝たんです」「おんなの人にはそういうところがあるんです」「そうゆうのって病気みたいなものなんです」。

 そうかもしれない。セックスは動物的な行為だから、相手の人格を愛すれば簡単には行為に及ばず、心と一体化したものを求めるのだろう。簡単に相手と事に及ぶのは相手は動物的人間として認識しているのかもしれない。でもそうは言っても性的な交感以外に他人との繋がり、自己の確認作業が出来ないので、果てしなく繰り返す人もいるのも事実である。関係者は嫉妬に悩み、自己の欠点を探したり苦しむ。そこをやりくりして過ごす、演技してと・・・・。

 

本作はもっと真面目に奥さんの心の闇がそうさせているという前提に立ち、あくまでその原因が自分にあるのではないかと悩み悩み苦しむ人生を選んでいる。

すなわち、創作部分で家福(主人公)はあの夜ある事を恐れて帰宅を遅らせた、その結果くも膜下出血で死なせた。俺は殺人者だ。一方みさきは地震の時、母を置いて逃げた、私も殺人者だ。

 

殺人者がこの世を生きている、苦しみながら。

劇中劇が2舞台あり、現実を語る入れ子構造になって迫る。

「ゴドーを待ちながら」二人の乞食は結局自殺を試みるが失敗する。

 

「ワーニャ叔父さん」は随分苦労しながらでも、それでも生きるしかない。

天国に行って神様に許されて幸せになれるのだから。

 

妻の浮気、子供の死、緑内障で視野が欠落。みさきは二人性格の家庭内暴力の母から醜いと嫌われ、愛想もない孤独な女性。

 

年齢も住む世界も違う悩み多き二人が癒しを見付けるドライブ。

 

****

舞台俳優のキャスティングが国際的で、7か国言語が飛び交う。

特に韓国出身の聾唖者による手話演出も異彩を放つ。

 

広島見物にゴミ焼却場を選んだり、見慣れない赤いサーブを使ったり、晩秋の広島から銀世界の北海道への急展開、沈黙の滑走、オープン・ルーフからタバコの煙を出すシーンなど、なかなか凝った映像も見られる。

 もちろん三浦透子のはまり役も特筆されよう。

 

ラストシーンの解釈は色々出来る。

①舞台の韓国公演で二人はあちらに行った。

②いや、日本を捨ててあちらで暮らし始めた。

過去を捨てたいのなら②かも、いや何処に行っても捨てられず、なやみは尽きないから、出口は無いのだろう。

 

最後に一言、少し長すぎるか。

 

 

 No.1

ノーカントリー 2007/122分

 監督 J・コーエン、I・コーエン

 トミーリー・ジョーンズ、バビエル・バルテム

 

アカデミー賞で作品賞、監督賞 助演賞など、他各賞を獲得、評価の高い作品。

ところが難解で凡人の評価は決して高くない、特異な作品。

ネットでは20回も見た人が詳細な謎解きをしているので、サスペンスとしての解体腑分けは省くが、コーエン兄弟は意識的に難解な作りにして特別な世界を拡げて目くらまししているだけで、解体の結果何が言いたいの?と言うことになると単純に見える。

 

要するに昔の保安官は拳銃も持たなくていいほど暴力が充満していなかった。

ところが現代は冷酷無比で、時には意味のない殺戮を無感情なロボットのように平気でこなす犯人が珍しくはない。

昔は良かった誰がこんな世の中にしたのか、老保安官の逃げの姿勢ばかりで何の救いもない。

 

だがサスペンス度と言う点にかけては「羊たちの沈黙」に次ぐ迫力がある。

寧ろ殺しの理由が時に正当性がある殺人鬼だから、余計怖いかも知れない。

 

人は偶然性に支配されているのは真実である、道の選択だけでなく命も偶然に支配されている。生も死はもともとそれに委ねるだけ。コインの裏表で生死を決める場面が2度ほどある。

人間性の否定。この古びたテーマをただただ恐ろしく描いただけ?

ではどうすればいいのか、監督にも観客にも分からない。